李白


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杜甫が李白について詠んだ詩

李白の生涯

李白(701-762)。中国盛唐期の詩人。

(文学史の上で
唐の時代を「初唐」「盛唐」「中唐」「晩唐」と四期に分けますが、
その中でも最も詩文が栄えたのが「盛唐」です)

今日に至るまで
中国史最大の詩人と言われています。

字は太白。号は青蓮居士(せいれんこじ)。
同じ盛唐の詩人杜甫と並び「李杜」と称されます。

その生き様、作風から「詩仙(しせん)」と称されます。
杜甫の「詩聖」、王維の「詩仏」に対応した呼び方です。

約1050の詩、60の文章が現存しています。

李白の出生

有名なわりに李白の生涯には出生も含めて不明な部分が多いです。

隋の末に一家が罪を得て西域に移ったといい、
李白の父は裕福な豪商だったとも言われています。

李白が生まれたのは西域の現キルギス共和国トクマク付近とも
蜀の隆昌県ともいわれ、李白の出生前後に一家は蜀へ移ってきました。

一説に、李白をみごもった時、母が夢を見ました。

天からすーっと金星が
おりてきて、ふところに入りました。

金星のことを中国で「太白」といい、
ここから「太白」と名付けられたといいます。

李白の臨終を看取った親戚の李陽氷が李白の詩集「草堂集」の序文に
書かれています。

李白の青年時代 ~ 門出

幼年より詩文に才能を発揮する一方、剣術をたしなんだり
遊侠の徒…ヤクザな連中と交わったりしました。

一方で道教の世界にあこがれを持ち、
成長すると四川省の岷山(みんざん)にこもりしました。

25歳になった李白は舟に乗って長江を下り、
まず江南へ向かいます。以後生涯を諸国遍歴のうちに送り、
二度と故郷の蜀に戻ることはありませんでした。

出発の時の青年李白の思いを詠んだ詩が
「峨眉山月の歌」だと言われています。

峨眉山月の歌
峨眉山月半輪の秋
影は平羌江水に入って流る
夜 清溪を發して三峽に向ふ
君を思へども見えず渝州に下る

峨眉山月歌
峨眉山月半輪秋
影入平羌江水流
夜發清溪向三峽
思君不見下渝州

【現代語訳】
秋の峨眉山には片割れ月がかかり、
月影は平羌の流れに映りこんで流れていく。

私は夜に清渓を出発して三峡に向かう。

川下りの間ずっと月を見たいと思っていたのだが、
とうとう見えないまま渝州に下ってしまった。

李白の結婚 家庭生活

蜀を離れた後は呉や越に遊びます。
洞庭湖の雄大な眺めに若き日の李白は胸躍らせたことでしょう。

32歳の時、安陸(湖北省)で元宰相の許圉師(きょぎょし)の知遇を得て
その孫娘と結婚しました。以後10年あまりの家庭生活を営みます。

しかし李白は家庭人として落ち着かず、
孟浩然・元丹丘といった詩人・道士たちと交わっては
諸国を遍歴しました。

特に李白は7歳年上の孟浩然のことを先輩として
とても尊敬していたようです。
「黄鶴楼にて孟浩然の広陵に之くを送る」」は今日でも知られる名作です。

黄鶴楼にて孟浩然の広陵に之くを送る
故人西のかた黄鶴楼を辞し、
烟花三月揚州に下る。
孤帆(こはん)の遠影碧空(へきくう)に尽き、
唯見る長江の天際に流るを。

黄鶴楼送孟浩然之広陵
故人西辞黄鶴楼
烟花三月下揚州
孤帆遠影碧空尽
唯見長江天際流

【現代語訳】
旧友の孟浩然先生が西方の黄鶴楼を去って、
霞たなびくこの三月、揚州へと下っていく。

(楼に登ってそれを見送ると)一艘の帆かけ舟が
遠く水平線のかなたまでいって見えなくなり、
長江が天のかなたまで流れているのが見えるばかりだ。

山東省の任城では五人の導師と交わりを持ち
徂徠山に住んで、竹渓の六逸(ちくけいのろくいつ)と呼ばれました。
(『旧唐書』文苑列伝)

妻の許子の死後は劉氏を、ついで宋氏をめとります。

許子との間には息子の李伯禽と娘の李平陽が。
ついで母は不明ですが李頗黎が生まれました。

あまり良い家庭人とはいえなかったようで、
「妻に贈る」という微笑ましい詩をのこしています。

内に贈る
三百六十日
日日 醉うて泥の如し
李白の婦と爲ると雖も
何ぞ太常の妻に異らん

内贈
三百六十日
日日醉如泥
雖爲李白婦
何異太常妻

【現代語訳】
一年三百六十日、
毎日泥のように酔っ払っている。

李白の嫁になったといったって、
これではお前、太常の妻とかわらないね。

【太常の妻】とは後漢時代、「太常職」という宮中の儀式を取り扱う役職にあった
男が、妻が職場にお弁当を届けてきたのを神聖な場所が汚れるといってしかりつけ、
牢屋に入れた故事に基づきます。

謫仙人(たくせんにん)

江南に遊び道士呉筠(ごいん)と知り合い、呉筠(ごいん)が朝廷に召し出されたのに
伴って長安にのぼります。

唐代のほかの詩人たちとは違い、李白は一度も科挙を受験していません。
しかし胸のうちでは自分の才能を信じ、必ず用いられるはずだと
信じていました。

「都へ登ってみないか?」

呉筠(ごいん)の誘いが李白の胸に熱いものをかきたてます。
李白がはじめて長安にのぼったのは742年。42歳の時です。

長安で李白は賀知章(がちしょう 659-744)の知遇を得ます。

賀知章は玄宗皇帝に仕え、詩人としても活躍していた、
当時の詩壇の長老です。

賀知章は李白の仙人めいた人柄をいたく気に入ります。

「お前の才能はこの世のものではない。
まるで天から流されてきた仙人のようだ(謫仙人 たくせんにん)」

「謫仙人…」

李白も「謫仙人」という称号をいたく気に入ったようで、
後々詩の中で「青蓮居士 謫仙人」と自称しています。

翰林供奉になる

742年、李白は賀知章の推挙を受けて翰林供奉となります。
時に李白42歳。いよいよ志がかなえられる時が来ました。

仕事は主に皇帝の行幸に付き添い、記念的な詩を詠む
宮廷詩人のようなものでした。

この時期の李白の作品として、
楊貴妃の美しさを牡丹の花にたとえた「清平調詞」三首が
今に伝わっています。

李白は日に日に文名を上げていきます。しかし宮廷歌人となってからも
李白はマイペースで人と折り合うことを嫌いました。

相手が皇帝だろうが大臣だろうが、気兼ねしません。
また昼間から酒を飲んで酔っ払っていることも多く、
次第に玄宗の側近たちから嫌われていきます。

高力士の讒言

後に親友となった杜甫が、
この時期の李白について有名な詩を書いています。

飲中八仙歌
李白一斗詩百篇、
長安市上酒家に眠る。
天子呼来たれども船に上らず、
自ら称す臣は是酒中の仙と。

飲中八仙歌
李白一斗詩百篇
長安市上酒家眠
天子呼来不上船
自称臣是酒中仙

【現代語訳】
李白は酒を一斗呑むごとに百篇の詩を作る。

ある日李白が長安の居酒屋で飲んだくれて眠っていると、
陛下からのお召しがあった。

李白はしかし千鳥足で舟遊びの舟に乗ることが出来ない。
そして言った。自分のことを「酒中の仙人でございます」と。

宮廷の沈香亭で牡丹の花が満開になり、
玄宗皇帝は愛人の楊貴妃をつれて
宴会を開きます。

「まあなんと美しいお花だこと」
「いやいや、貴妃の美しさの前では、花すら色あせる」
「んまあ陛下ったら」

なんてやり取りもあったかもしれませんが、
しかしせっかくの花。これに詩をもって興を添えれば
これ以上面白いことはなかろうということで、

「李白を呼べい」

玄宗皇帝の使いの者が李白のもとに走ります。
しかしこの時、李白は二日酔いで寝ていました。

「ううう、だりい」

使いの者たちは李白を無理矢理引っ張っていきます。
そして宮中の池の船着き場まで来ました。

ここでマズイことが起こってしまいました。

船着き場には宦官の高力士がいました。
玄宗皇帝の側近中の側近です。

李白からすればたいそう目上の人物です。
李白としては礼を尽くして頭を下げるないといけない
場面です。

しかし李白は二日酔いでべろんべろんに
酔っぱらっています。

どうしたか?

「オラァ靴ぬがしゃーー!!」

バーンと宦官の高力士の前に足をほり出します。

「なっ、なんじゃその無礼な態度は!いくら皇帝陛下の
お気に入りといっても、許されぬぞ!」

「やかましい。いい気分で寝ていたのを引っ張ってきやがって。
皇帝も大臣も知ったことか。
俺は酒の仙人であるぞ!」

「何を言っているのだお前は」

結局、李白は高力士に靴を脱がせてしまいます。
高力士は執念ぶかい性格で、後々までこの屈辱を忘れませんでした。

ある時、李白が詩の中で楊貴妃の美しさを
前漢時代の美人、趙飛燕(ちょうひえん)になぞらえます。

高力士はそのチャンスを逃しませんでした。

趙飛燕は庶民の出身ながら美しく前漢の成帝に愛され、
ついに皇后にまでなりますが、成帝の崩御後は
支持基盤を失い庶民にまで落とされついに自殺した人物です。

「李白は無礼です!皇帝陛下に対するあてつけです」

こうして李白は失脚し、長安を追われました。
時に744年。李白44歳。
李白が宮廷詩人として活躍したのはわずか3年間のことでした。

杜甫との出会い

長安を去った李白はふたたび遍歴生活にもどります。

744年の洛陽。居酒屋で偶然いあわせた李白と杜甫はおおいに話が
盛り上がり、意気投合します。

同じく詩人である高適(こうせき)も交えて
山東・河南一帯を旅するなど彼らと親しく交遊しました。

李白と杜甫の交流は一年ほどで終わりますが、
別れた後も杜甫は李白のことを生涯の友と思い、
李白のことを何度も詩に書いています。

春日李白を憶う
白や詩 敵無く
飄然として思ひ群ならず
清新 ユ開府
俊逸 鮑参軍
渭北 春天の樹
江東 日暮の雲
何(いづ)れの時か一樽の酒
重ねて與(とも)に細かに文を論ぜん

春日憶李白
白也詩無敵
飄然思不群
清新ユ開府
俊逸鮑参軍
渭北春天樹
江東日暮雲
何時一樽酒
重與細論文

【現代語訳】
李白よ、あなたの詩は天下無双だ。
世間に流されず、あくまでわが道を行く。
他の誰にも真似はできない。

その詩の新鮮で活き活きしているのはユ信のようだし、
才能のあふれることは鮑照にも並ぶほどだ。

ここ渭水の北ではもう春めいて、
木々が茂ってきている。

あなたは江東で
日暮れの雲の下にいるのか。

またいつか酒樽を前に
細やかに文学論に興じたいものだ。

阿倍仲麻呂との交流

また李白は遣唐使として中国に渡ってきた
阿倍仲麻呂とも交流を持ちました。

阿倍仲麻呂は717年、19歳の時、
遣唐使の一員として吉備真備らと共に唐に渡り
長安で科挙に合格し唐王朝の役人として玄宗皇帝に仕えていました。

なので、李白は長安にいた3年間のうちに
仲麻呂と出会ったと考えられます。

753年、阿倍仲麻呂が36年ぶりに日本に帰ることになります。
その送別の宴の席に李白の姿もあったようです。

しかし阿倍仲麻呂を乗せた船は暴風雨にあい
沈没したという知らせが李白のもとに届きます。

李白は友人を失ったショックを
「晁卿衡を哭す」という歌に詠んでいます。

晁卿衡を哭す
日本の晁卿 帝都を辞す
征帆 一片 蓬壷を繞る
明月帰らず 碧海に沈む
白雲 愁色 蒼梧に満つ

哭晁卿衡
日本晁卿辞帝都
征帆一片繞蓬壷
明月不帰沈碧海
白雲愁色満蒼梧

【現代語訳】
日本の友人、晁衡は帝都長安を出発した。
小さな舟に乗り込み、日本へ向かったのだ。

しかし晁衡は、
明月のように高潔なあの晁衡は、
青々とした海の底に沈んでしまった!

愁いをたたえた白い雲が、
蒼梧山に立ち込めている。

実はこれは、誤報でした。
仲麻呂はベトナムに漂着していました。

ベトナム経由で再び長安に戻り、粛宗・代宗に仕え73年の生涯を終えます。
二度と日本の地を踏むことはありませんでした。

安禄山の乱 永王李リンの軍に加わる

755年、安禄山の乱が起こり賊軍が長安に侵入すると
玄宗は蜀へ逃れ粛宗が即位します。

55歳の李白はこの時廬山にいましたが、玄宗の第16子で粛宗の異母弟の
永王李リンに招かれて幕僚として軍に加わります。

「李白殿、貴殿は詩を書くだけのお方ではないはず。
賊軍を討伐し、唐王朝を救うため、力を貸してくれませぬか」
「殿下、畏れ多いお言葉です!」

こうして李白は永王李リンの軍に加わります。

しかし、永王李リンは安禄山率いる反乱軍を討つという目的から
次第に逸脱し、江陵で独立政権を営むようになります。

粛宗は怒ります。

「ドサクサにまぎれて帝位を簒奪しようというのかッ
なんたる不埒!」

粛宗は永王李リンのもとに将軍皇甫スウと高適の軍勢を差し向けます。
永王李リンは捕えられ、処刑されました。

李白も反乱軍に与した罪に問われ、
夜郎(やろう 貴州省)へ流されまることになります。

しかしその途中の759年、白帝城付近で恩赦にあい
罪を許され、揚子江沿いに引き返していきました。

晩年

晩年は江南の地で親戚の親戚の李陽氷のもとに身を寄せ、
62歳で病没しました。

言い伝えによると晩年の李白が舟に乗っている時、
月がとても綺麗に川面に映り込んでいました。

「おお…キレイな月じゃ。手をのばせばつかめそうじゃ。
つかむぞ。つかまいでか。よっ、はっ、ほっ!」

バシャーン!

水面に映り込んだ月がゆらゆらと波立ち、しかし
やがてその波もおさまり、あたりは再びひっそりした静寂に包まれたという…

いかにも仙人めいた、李白らしい最期が、
言い伝えとして残っています。

また、年をとって白髪だらけになったことを嘆く
「秋浦の歌」も有名です。

秋浦の歌
白髪三千丈、
愁いに縁りて箇くのごとく長し。
知らず明鏡の裏(うち)、
何れの處にか秋霜を得たる。

秋浦歌
白髮三千丈
縁愁似箇長
不知明鏡裏
何處得秋霜

【現代語訳】
三千丈もあろうかという私の白髪は、
長年の愁いによってこんなにも長くなってしまった。

鏡の中にいるのは確かに自分のはずだが、
全く知らない誰かを見るようだ。

どこでこんな、秋の霜のような白髪を伸ばしてしまったのか。

朗読:左大臣光永

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