早発白帝城 李白(つとにはくていじょうをはっす りはく)

本日は漢詩の朗読です。

李白「早発白帝城(つとにはくていじょうをはっす)」。
 

早発白帝城 李白
朝辞白帝彩雲間
千里江陵一日還
両岸猿声啼不住
軽舟已過万重山

早(つと)に白帝城(はくていじょう)を発(はっ)す 李白
朝(あした)に辞(じ)す白帝彩雲(はくていさいうん)の間(かん)
千里(せんり)の江陵(こうりょう)一日(いちじつ)にして還(かえ)る
両岸(りょうがん)の猿声(えんせい)啼(な)いて住(や)まざるに
軽舟(けいしゅう)已(すで)に過(す)ぐ万重(ばんちょう)の山(やま)

白帝城

現代語訳

朝焼けの空に五色の雲が美しくたなびく中、白帝城を出発し、
千里先の江陵まで一日がかりで戻ってきた。

両岸から聞こえる寂しげな猿の声がなりやまぬうちに、
私の小さな舟はもう幾万にも重なった山々を通り過ぎてしまう。

語句

■彩雲 朝焼けの空に五色の雲がたなびいている様子。■江陵 三峡を抜け、下ったところにある湖北省の都市。現在の荊州。唐の時代は荊州の州役所が置かれ、要衝の地だった。■両岸猿声 長江を挟んだ両側の崖から、猿の声が聞こえてくる。この猿はニホンザルではなく、体がずっと大きく、キキーキキーとするどい声を発す。 ■軽舟 軽やかな小舟。舟の重量が軽いということと、スピード感を同時に出している。■万重の山 幾重にも重なった山々。

解説

日本でもすごく人気のある詩です。教科書にも載ってるし、詩吟でも定番どころですね。李白の絶句の中で最も優れた詩と言われています。

作詩時期については諸説あり、結論が出ていません。

1.李白が故郷を出る25歳の頃
2.永王李リンの乱に荷担した罪で夜郎に流されかけるが恩赦で許された59歳の頃
3.三峡下流の湖北省安陸に安住していた27-37歳の頃

【白帝城】は後漢の頃、公孫述が白帝と称して築いた城。現重慶市奉節県。

その後、三国志の劉備元徳が亡くなったことで有名になりました。

呉の陸遜に追い詰められた劉備軍はこの白帝城にこもり、劉備はそのまま病没します。

現在はダムができたため、浮島になってしまいました。山頂には劉備を記念する白帝廟があります(「山頂」ていっても船着場から15分くらいで上れますが)。

白帝城は三峡下りの起点であり、三峡は険しい渓谷がつらなり猿が多いことで有名です。「峨眉山月の歌」と並び、李白が三峡下りを歌った詩の双璧ともいえると思います。

白帝城から江陵までは実際には千里どころか千二百里(600キロ)あり、しかも直線ではなくヘアピン状に蛇行しています。とても一日では行き着けないのですが、そこを「一日で行った」と言い切るところにスピード感があります。

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朗読:左大臣光永