杜甫
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杜甫の生涯
杜甫(712-770)。中国盛唐期の詩人。字は子美。712年河南鞏県(河南省鞏義市)で生まれます。長安南の少陵が故郷であるため少陵と呼ばれています。また李白の「詩仙」、王維の「詩仏」に対しては「詩聖」、李白と並んでは李杜、中唐の杜牧に対しては大杜・老杜とよばれます。
十三代前の先祖に晋初めの杜預(どよ)が『春秋左氏伝』の注釈書を残し文学史上に名前を残しています。祖父杜審言(としんげん)は唐初期の詩人で『唐詩選』に詩を採られており、杜甫はこの二人をとても尊敬していました。
杜甫の父は杜閑(とせき)、母は崔(さい)。母崔は杜甫の幼少時に亡くなり、杜甫は叔母のもとで育てられました。
杜甫は7歳で詩を作り、9歳で書道を学び始めたと記録にある一方、自宅のナツメの木に一日千回のぼるなど、自由な少年時代を送ったようです。
二十歳の頃、四年間にわたって呉越地方(江蘇省・浙江省)に遊びます。二十四歳で科挙の試験を受けるが、落第。その失意によってか、翌年から山東・河北一帯を旅し、三十歳の時に洛陽に戻ります。
洛陽に戻った杜甫は郊外に家をたて、楊という女性を妻に迎えます。杜甫は生涯楊を愛し、ほかに妻をめとらありませんでした。
745年夏、長安を追われてきた李白と出会います。この時杜甫33歳、李白44歳。杜甫と李白は意気投合して、この年の秋から足掛け2年間、詩人高適(こうせき)もまじえて河南・山東を旅行します。
746年、はじめて長安に上り求職活動にあけくれるが、うまくいかず、帰京。750年妻子を連れて再度上京。この年長男宋文が誕生。杜甫39歳。
杜甫はいよいよ張り切って求職活動にはげみむも、うまくいかず、生活は困窮をきわめます。そのため妻子を長安北方の奉先県(陝西省渭南市蒲城県)に預けました。
755年、杜甫は右衛卒府兵曹(うえいそつぶへいそう)という下級の役人として採用されます。時に杜甫44歳。妻子を迎えに奉先県へ戻ります。しかし、この年安禄山の乱が勃発。玄宗皇帝は楊貴妃をつれて真っ先に長安を脱出します。すると、玄宗の第三子粛宗が勝手に即位しました。玄宗はあとからこれを知らされるも、皇子の即位を黙認しました。
杜甫は家族を疎開させてから、霊武で即位した粛宗のもとにかけつけます。しかしその途上、反乱軍にとらえられ長安に連行され一年半軟禁されます。この時期に「春望」や「月夜」の名作が作られました。
757年4月、杜甫は幽閉されていた長安を脱出し、長安西方鳳翔の粛宗の仮の御所にかけつけます。粛宗は杜甫の忠誠心によって左拾遺の位を授けます。
しかし任官早々、杜甫は左遷された宰相房カンを弁護したため粛宗の怒りを買い、翌年華州の司功参軍(しこうさんぐん)の職に左遷されます。その司功参軍も一年ほどで辞職。戦乱と飢餓を避けるため、家族を連れて漢中(長安一帯)を離れ秦州(しんしゅう)に向かいます。
親類の援助を期待してのことだったようですが、たいした援助は得られませんでした。翌年南方の同谷に移動。さらに成都に移動。760年春、成都郊外の浣花渓のほとりに新居を築きます。いわゆる浣花草堂です。
翌761年、杜甫と親交のあった厳武が節度使として成都に赴任。杜甫のすむ浣花草堂をまっさきに訪れ、以後経済的な援助をしてくれたようです。杜甫の生活もようやく落ち着くかに見えました。
しかし翌762年、厳武が朝廷に呼び戻されます。また地方軍閥の反乱が起こり、杜甫は家族を連れて成都を離れます。
764年、厳武がふたたび成都へ戻ると、杜甫も浣花草堂に戻ります。厳武の推薦で節度参謀として厳武幕下に加わり、工部員外郎(こうぶいんがいろう)の職を得ます。名目ばかりの職ではあるものの、ポストを得られたことは大きかったのです。これにより杜甫は杜工部とも呼ばれます。
765年、長年援助してくれた厳武が亡くなります。杜甫は家族を連れて浣花草堂を離れ蜀をあとにします。舟で錦江(きんこうょほ・岷江(びんこう)を下り各地を転々とした後、四川東端のキ州(重慶市奉節県)に入ります。
キ州は長江川岸に築かれた港町です。長江一の難所三峡のすぐ上流に位置し、交易の要所として発展していました。杜甫はキ州都督柏茂淋(はくもりん)の保護を受け、果樹園や田畑の管理人の仕事をして、四回ほど住居を変えながら生活します。
杜甫はキ州に2年間を過ごし、768年正月、ふたたび舟に乗って三峡を下り、荊州に至ります。荊州には杜甫の弟杜観がおり、誘いを受けたといわれますが、荊州ではあまり親類からの援助を受けられなかったようです。同年秋、杜甫はふたたび長江を下ります。
荊州から杜甫の故郷洛陽はまっすぐ北方です。近い距離ではありませんが、途中山地などのけわしい地形もなく、比較的楽な道のりです。
杜甫が本気で故郷に戻りたいならここで北へ向かうべきでした。しかし、なぜか杜甫は長江を下り東へ向かいました。その理由はわかっていません。落ちぶれた立場で故郷の地を踏むことをいさぎよしとしなかったのかもしれません。
以後、湖北・湖南をさまよい続けた後、770年湖南のライ陽で病死したと伝えられます。また洞庭湖に近い相江で舟の上で亡くなったとも伝えられます。
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