陸游「野人の家に過りて感有り」

南宋の詩人・陸游(りくゆう)の、「野人(やじん)の家(いえ)に過(よぎ)りて感有(かんあ)り」をよみます。

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南宋(1127-1279)の時代、中国は満州女真族の国、金に国土をおびやかされ、屈辱的な講和をむすばされました。そんな中、政治家であり詩人である陸游は金に対する徹底した主戦論をとなえました。講和派に目をつけられ何度も左遷されますが、最後まで意志をまげませんでした。そのため陸游は「愛国詩人」「憂国詩人」とよばれます。

過野人家有感 陸游

縱轡江皋送夕暉
誰家井臼映荊扉
隔籬犬吠窺人過
滿箔蠶饑待葉歸
世態十年看爛熟
家山萬里夢依稀
躬耕本是英雄事
老死南陽未必非

野人(やじん)の家(いえ)に過(よぎ)りて感有(かんあ)り 陸游(りくゆう)
轡(たづな)を江皋(こうこう)に縱(ほしいまま)にして夕暉(せっき)を送(おく)る
誰(た)が家(いえ)の井臼(せいきゅう)ぞ荊扉(けいひ)に映(えい)ず
籬(まがき)を隔(へだ)てて犬(いぬ)は吠(ほ)え人(ひと)の過(す)ぐるを窺(うかが)い
箔(はく)に満(み)てる蚕(かいこ)は飢(う)えて葉(は)の帰(かえ)るを待(ま)つ
世態(せたい) 十年(じゅうねん) 爛熟(らんじゅく)を看(み)る
家山(かざん) 万里(ばんり) 夢(ゆめ)に依稀(いき)たり
躬耕(きゅうこう) 本(も)と是(こ)れ英雄(えいゆう)の事(こと)
南陽(なんよう)に老死(ろうし)するも未(いま)だ必(かなら)ずしも非(ひ)ならず

現代語訳

農民の家に立ち寄って感じるところがあった。
川岸で馬の歩むにまかせて進み、夕陽を見送る。
誰の家の井戸と臼だろうか、みすぼらしい折戸の前で夕陽に映し出されている。
垣根をへだてて犬は吠え、人が通り過ぎるのをうかがい、
敷き詰められたすのこの上にいる蚕は植えて、桑の葉が持ち帰られるのを待っている。
世のありようを、ここ十年、いやというほど見てきた。
故郷は万里のかなた 夢の中でたまに見るだけだ。
自ら鋤をとって畑をたがやすのも、本来英雄のしごとである。
諸葛亮が南陽の田舎でみずから鋤をとって畑をたがやし一生を終える覚悟を決めていたように、そんな生き方も、悪いものではない。

語句

■過 立ち寄る。 ■野人 農民。 ■縱轡 馬の歩むに任せる。 ■江皋 川岸。 ■夕暉 夕陽。 ■井臼 井戸と臼。 ■荊扉 そまつな折戸。 ■籬 垣根。 ■箔 蚕を飼うところにしきつめるすのこ。 ■葉 桑の葉。 ■世態 世のありよう。 ■爛熟 じゅうぶんに煮詰まること。世のありようをすっかり見尽くしたの意。 ■家山 故郷。陸游の故郷は越州山陰(えっしゅうさんいん)(浙江省紹興市)。 ■依稀 めつたにないこと。 ■躬耕 自分で鋤をとって畑をたがやすこと。 ■南陽 河南省南陽。蜀の諸葛亮孔明孔明が劉備の召しを受けて世に出るまで自給自足の生活をしていた。孔明の「出師表」に「臣本布衣、躬耕於南陽、苟全性命於乱世、不求聞達於諸侯(臣(しん)は本(もと)布衣(ほい)、躬(みづか)ら南陽(なんよう)に耕(たがや)し、苟(いやし)くも性命(せいめい)を乱世(らんせい)に全(まっと)うせんとして、聞達(ぶんたつ)を諸侯(しょこう)に求めざりき)」。

解説

陸游(1125-1209)。南宋最大の詩人。政治家。字は務観(むかん)。号は放翁(ほうおう)。越州山陰(えっしゅうさんいん)(浙江省紹興市)の名門出身。范成大(はんせいだい)・楊万里(ようばんり)とならぶ南宋の三大詩人の一人。

陸游が生まれた翌年、宋の首都・汴州(河南省開封)は女真族の国・金に占領され、その翌年には天子欽宗(きんそう)とその父徽宗(きそう)が連れ去られました。陸游の一家はこの混乱の中、故郷山陰をはなれ各地を転々とし、陸游が九歳のときようやくもどりました。

陸游はこうした子供時代を送ったため、また父祖伝来の愛国思想の影響もあり、金に対してのてっていした主戦論を唱えるようになりました。そのため講和派に疎まれ、生涯に何度も左遷されますが、ついに意志をまげませんでした。陸游が「愛国詩人」「憂国詩人」とよばるゆえんです。

晩年の20年間は故郷の農村でみずから畑をたがやし恩給生活を送りましたが、胸のうちには「いつか金を倒し、故郷を取り返す」という思いを秘めていました。詩のはしばしにそれがあらわれています。

最後の聯「躬耕本是英雄事 老死南陽未必非」は諸葛亮孔明にことよせて言っています。 諸葛亮孔明は世に出るまで、南陽(河南省南陽)の田舎で、自給自足のくらしをしていました。

そこへ当時、一地方長官にすぎなかった劉備が三顧の礼をつくしてたずねてきて、今の世の中をどうするか諸葛亮に問うたのです。それに対して諸葛亮は「天下三分の計」をしめし、劉備・劉禅二代にわたって蜀の国につくすことになったのでした。

そのことを後年、諸葛亮は「出師表」の中で回想して、 「臣本布衣、躬耕於南陽、苟全性命於乱世、不求聞達於諸侯(臣(しん)は本(もと)布衣(ほい)、躬(みづか)ら南陽(なんよう)に耕(たがや)し、苟(いやし)くも性命(せいめい)を乱世(らんせい)に全(まっと)うせんとして、聞達(ぶんたつ)を諸侯(しょこう)に求めざりき)」 としるしています。

出師表はこちらで朗読・解説しています
https://kanshi.roudokus.com/suishi.html

陸游も老いたとはいえ、諸葛亮のように、祖国のためにはたらくぞという気概をもっていたのでしょう。

が、陸游はとうとう生存中に金の滅亡(1234)を見ることはありませんでした。

しかも金を滅亡させたモンゴル軍によって、南宋そのものも滅ぼされてしまいます(1279)。

皮肉にも諸葛亮の死後、蜀の国がほどなく滅んでしまったことにも重なってみえます。

陸游の作品

山西の村に遊ぶ
https://kanshi.roudokus.com/sanseinomura.html

剣門道中微雨に遇う
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