「一片の氷心玉壷に在り」(「芙蓉楼にて辛斬を送る」) 王昌齡

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芙蓉楼送辛斬 王昌齡
寒雨連江夜入呉
平明送客楚山孤
洛陽親友如相問
一片氷心在玉壷

芙蓉楼《ふようろう》にて辛斬《しんぜん》を送る 王昌齢《おうしょうれい》
寒雨《かんう》 江《こう》に連《つら》なって 夜 呉《ご》に入る
平明《へいめい》 客《かく》を送れば 楚山《そざん》孤《こ》なり
洛陽《らくよう》の親友 如《も》し相問《あいと》はば
一片《いっぺん》の氷心《ひょうしん》 玉壷《ぎょっこ》に在《あ》りと

現代語訳

冷たい雨が川面に降りしきる中を、 昨夜の内から君を送るため呉までやってきた。

明け方になっていよいよ君を送ると、
目の前には楚山がぽつんとそびえている。

洛陽の親友たちがもし私のことを尋ねたら、言っておいてくれ。

「ひとかけらの氷の芯が壷の中に浮いているような、
そんな清らかな心のままだよ」と。

語句

■芙蓉楼 南京の東方、江蘇省鎮江市の長江を見下ろすところにあった楼台。 ■辛漸 作者の友人。詳細不明。 ■寒雨 冷たい雨。 ■平明 夜明け方。ものがハッキリ見える時間。 ■楚山孤 楚山がぽつんとそびえている。 ■一片氷心 ひとかけらの氷の芯(そのような、透き通った心) ■玉壷 玉(ぎょく)で作った壷。

解説

一片の氷心 玉壷に在り」の結句がよく知られています。洛陽に帰っていく友人、辛斬さんを見送る詩です。

この時、王昌齢は左遷されて江寧(南京)にいます。そこへ友人の辛斬が洛陽から訪ねてきます。王昌齡は辛斬といろいろ話したことでしょう。そして夜のうちに南京を発って長江を下って東の芙蓉楼まで見送ります。さあお別れだ。元気でなという場面です。

ここから辛斬さんは長江を横切り運河沿いに北上し、洛陽へ戻っていくのです。

辛斬、南京~芙蓉楼~洛陽
辛斬、南京~芙蓉楼~洛陽

洛陽にはかつての友人たちがたくさんいます。左遷されている王昌齢はもう長いこと会ってないのです。王昌齢は洛陽に帰っていく辛斬にことづけます。「私のことは心配ない、澄み切った心でいるよ、友人たちにそう告げてくれ」と。

1993年、宮沢喜一元首相が引退する際に引用したことで知られます。

王昌齡(698-755)字は少伯。盛唐期の詩人です。出身地は京兆(けいちょう)(陝西省西安せんせいしょうシーアン)とも江寧(こうねい)(江蘇省南京こうそしょうなんきん)ともいわれます。開元15年(727年)年進士に及第。

校書郎(こうしょろう)から犯水(はんすい 河南省)の尉(い)となりますが 素行が悪かったために江寧(こうねい 南京)へ、ついで湖南省龍標へ左遷されます。その左遷先から王江寧・王竜標とも呼ばれます。

755年安禄山の乱が起こるとそのドサクサにまぎれて勝手に帰郷。そのため県の刺吏(しし 長官)である閭丘暁(りょきゅうぎょう)に殺されました。

閨怨の情(夫と離れている妻の気持ち)を歌った七言絶句を得意としました。一方辺境の兵士の気持ちを歌った辺塞詩や送別詩にもすぐれたものが多いです。著書に詩の技法を論じた『詩格(しかく)』があります。

左遷中というのは、時間がタップリあるためでしょうか。よい詩が生まれるようです。菅原道真「九月十日」柳宋元「江雪」、細川頼之「海南行」なども、左遷中の作です。

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朗読:左大臣光永

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