九月十日 菅原道真

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九月十日 菅原道真
去年今夜侍清涼
秋思詩篇獨斷腸
恩賜御衣今在此
捧持毎日拜餘香

九月十日(くがつとおか) 菅原道真(すがわらのみちざね)
去年(きょねん)の今夜(こんや) 清涼(せいりょう)に侍(じ)す
秋思(しゅうし)の詩篇(しへん) 独(ひと)り断腸(だんちょう)
恩賜(おんし)の御衣(ぎょい)は今此(いまここ)に在(あ)り
捧持(ほうじ)して 毎日(まいにち)余香(よこう)を拝(はい)す

現代語訳

去年の今夜は清涼殿の宴で、お傍にはべらせていただきました。

「秋思」という題で私が詩を詠んだこと…
思い出すとはらわたが引きちぎれそうです。

あの時、いただいた御衣は、今もここにございます。
毎日捧げもっては、あの時の残り香を拝しております。

語句

■清涼 清涼殿。天皇がましました建物。 ■秋思の詩篇 道真は去年、清涼殿で「秋思」という詩を詠んだ。 ■恩賜の御衣 その時に天皇から賜った御衣。 ■捧持 ほうじ。ささげ持つ。 ■余香 残り香。

解説

菅原道真は平安時代中期、代々の学者の家系である
菅原家に、菅原是善の三男として生まれます。

11歳で詩を作り、その秀才ぶりで父を驚かせました。

式部少輔・文章博士・加賀権守となり出世を重ねます。

一時讃岐守として地方に飛ばされますが、
ほどなく中央に呼び戻され
宇多天皇、ついで宇多天皇の息子の醍醐天皇のもとで
重く用いられ、右大臣に至りました。

しかし藤原時平にうとまれ、昌泰四年(901年)
醍醐天皇退位を画策したという無実の罪を得て、
大宰権帥(だざいのごんのそち)として、
大宰府に流されます。

配所のありようは、みじめなものでした。

官舎は荒れ放題で、
屋根は雨漏りがし、垣根は敗れ放題。
都の華やかさからすると、その落差は大変なものでした。

この詩は、配所生活一年目に、
去年の宮中での宴を思い出して詠んだ歌です。

九月九日は【重陽の節句】、その翌日の十日に、
宮中で詩会がもよおされたのです。
そこで道真は帝(醍醐天皇)のリクエストに応じて見事な詩をつくりました。

「ムム、さすが道真である。褒美をとらせる」
「ははっ、ありがたきしあわせ」

この時道真は、醍醐天皇より御衣を賜ったのです。
その、ありがたい御衣を、道真は大宰府まで
持ってきていました。

「あの時、いただいた御衣は、今もここにございます。
毎日捧げもっては、あの時の残り香を拝しております
それにしても…あの清涼殿の宴はつい去年のことなのに、
今年は大宰府で寂しく過ごしている…
なんという落差か」

つくづく、すべてが変わってしまったことを実感する道真でした。

去年、清涼殿で詠んだ「秋思」という詩は、以下のものです。

秋思 菅原道真
丞相度年幾楽思
今宵触物自然悲
聲寒絡緯風吹処
落葉梧桐雨打時
君富春秋臣漸老
恩無涯岸報猶遅
不知此意何安慰
飲酒聴琴又詠詩

秋思(しゅうし) 菅原道真(すがわらのみちざね)
丞相(じょうしょう)年(とし)を度(わた)って 幾(いく)たびか楽思(らくし)す
今宵(こんしょう) 物(もの)に触(ふ)れて 自然(しぜん)に悲(かな)し
声(こえ)は寒(さむ)し 絡緯(らくい) 風吹(かぜふ)くの処(ところ)
葉(は)は落(お)つ 梧桐(ごどう) 雨打(あめう)つの時(とき)
君(きみ)は春秋(しゅんじゅう)に富(と)ませたまい臣(しん)は漸(ようや)く老(お)いたり
恩(おん)は涯岸(がいがん)無(な)く 報(ほう)ずることなお遅(おそ)し
知(し)らず この意(い) 何(いず)くにか安慰(あんい)せん
酒(さけ)を飲(の)み琴(きん)を聴(き)いて また詩(し)を詠(えい)ず

【現代語訳】
私菅原道真は右大臣となり政務に忙殺される中、
年を過ごし、何の楽しむところがあったでしょう。

今夜、物にふれて自然の物音を耳にしているだけで
悲しみがこみ上げるのです。

コオロギは寒々とした声で風の吹きしきる中、鳴いています。
アオギリの葉は雨に打たれてすっかり落ちてしまいました。

わが君はお若く前途洋洋ですが、私は次第に老いていくのです。

この心をどうやって慰めればいいのか、私は知りません。

せめて酒を飲んで、琴を聴いて、詩を詠じましょう。

【語句】
■丞相 右大臣たる菅原道真自身のこと。 ■絡緯 らくい。こおろぎ。 ■梧桐 あおぎり。 ■漸 次第に ■涯岸 果て。

延喜3年(903年)菅原道真は配所大宰府で失意のうちに
息を引き取ります。

道真の死後、都では道真左遷にかかわった人々が
次々と原因不明の死を遂げます。
道真最大の政敵であった藤原時平も、延喜9年(909年)
39歳の若さで亡くなりました。

さらに延長8年(930年)清涼殿に雷が落ち、
時の大納言はじめ六人が死亡。

醍醐天皇もその時のショックでか、ほどなく
亡くなってしまいます。

「菅公の祟りだ…菅公の祟りだ…」

人々は恐れ、菅原道真の怨霊を治めるために
京都に北野天満宮を建て、天神さまとして厚く祀りました。

…という話は周知のとおりですが…

道真の生前の人物から考えて、怨霊になることはあり得ないと思います。

たとえ敵に対しても、怨んだり、まして呪い殺すというのは、
考えられない人柄でした。

死後、急に人格が変わるというのもおかしな感じです。

また、神様に祀られたことを
もしあの世で道真公が知ったら、
そんな、やめてくださいと辞退したと
思います。

なぜ道真は怨霊にされ、
天神さまとして祭られたのか?

いろいろと政治的な事情もからんでいるんですかね…。

個人的な思い出を語りますと、私は九州出身なので
太宰府天満宮はなじみ深いです。

高校受験の時、通っていた学習塾の塾長が
太宰府天満宮の合格エンピツを買ってきて皆に配りました。

ふだんは「神だのみで受験をするな!」と厳しく言う塾長が、
単身大宰府まで行ってエンピツを全員ぶん買ってきた、
それが涙をさそわれました。

普段いばっている、けっこう
恰幅のいい塾長がですね、太宰府天満宮の売店で
「合格エンピツ40本おねがいします」とか言っている様子が、
味わい深く微笑ましく、イメージされましたね。

朗読:左大臣光永

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