夏目漱石の伊予に之くを送る 正岡子規

本日は漢詩の朗読です。

正岡子規「夏目漱石の伊予に之くを送る」。

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送夏目漱石之伊予 正岡子規
去矣三千里
送君生暮寒
空中懸大岳
海末起長瀾
僻地交遊少
狡児教化難
清明期再会
莫後晩花残

夏目漱石の伊予に之くを送る 正岡子規
去(ゆ)けよ三千里
君を送れば暮寒(ぼかん)生ず
空中に大岳(たいがく)懸かり
海の末に長瀾(ちょうらん)起こる
僻地交遊少なく
狡児(こうじ)教化難からん
清明に再会を期す
後(おく)るる莫かれ晩花の残(そこな)はるるに

【現代語訳】
行くがいい、三千里の彼方へ
君を送れば夕暮れの寒さが身にしみる。

道中、空には富士山がかかって見えるだろう。
海の果てには大波が起こるだろう。

田舎には一緒に遊ぶ友達も少ないし、
クソガキどもを教え諭すのは難しかろう。

約束だ。清明節には再会しよう。
遅咲きの花が散ってしまわないよう、遅れることなく戻ってきておくれ。

■暮寒 夕暮れの寒さ。■大岳 富士山。 ■長瀾 大波。 ■狡児 クソガキ。 ■清明 清明節。二十四節気の一つで春分の15日後、4月5日頃。「三月の節、万事此に至りて潔斎にして清明なり」(『月令広義』)とあるのが出典。中国ではこの日、墓参りをしたりピクニックを楽しむ。杜牧「清明」参照。

解説

正岡子規と夏目漱石の交流は明治22年(1889年)、東大予備門在学中に始まりました。きさくに文学を語り合ったり落語を聞きに行ったりする仲にはじまり、以後二人は生涯を通じての親友同士となりました。

子規が作った文芸同人誌「七草集(ななくさしゅう)」の批評を書いた時、はじめて「漱石」の号を使いました。

(東大予備門は東京帝国大学の予科(付属校)で、現在の東大教養学部の前身です)

「夏目漱石の伊予に之くを送る」は明治29年(1896年)の正月、漱石が伊予の松山で英語教師をしていた頃、東京に帰省し、また松山に戻っていく。それを子規が新橋駅で見送った詩です。友人に対する、温かな気持ちが溢れています。

この前年、子規は日清戦争に従軍記者として志願しました。しかしその帰路、船の中で血を吐いて倒れます。その後、松山の漱石の下宿【愚陀仏庵(ぐだぶつあん)】にしばらく滞在しますが、ふたたび東京へ向かいます。

漱石を見送った翌月、リューマチだと思っていた腰の痛みが、脊椎カリエスだとわかります。以後、子規は亡くなるまでの闘病生活の中で『墨汁一滴』『病床六尺』などの作品を世に問うのでした。

子規の死後の明治37年(1904年)、子規門下の読書会「山会(やまかい)」で、漱石は短い小説を発表します(「山会」…「文章には山場が必要だ」という子規の考えに由来)。

これが大好評をはくし、雑誌「ホトトギス」に読みきり掲載⇒連載となります。

処女作『我輩は猫である』です。

漱石が小説家として歩み始めたのは、こんなふうに子規と深く関係したことなのです。
もし子規との出会いがなければ、文豪漱石は世に出ていなかったかもしれないですね。

「去けよ三千里」…なんといってもこの書き出しがカッコよくて印象に残ります。

正岡子規(1837-1902)。明治時代の俳人。慶応3年(1867)四国伊予に生まれる。本名常規(つねのり)。幼名処之介(ところのすけ)、昇(のぼる)。松山藩の15石取りの下級武士正岡常尚の長男として生まれる。

松山藩は佐幕派だったので明治維新で藩士たちは敗戦の憂き目にあった。

明治5年(1872)年、父常尚が没したため家督を継ぐ。
叔父の後見を受け、外祖父・大原観山の家塾に通い、漢書の素読を学ぶ。

少年時代は漢詩・山水画・軍談(講談)などに広く親しみ、隣県高知で起こった自由民権運動の流れに乗り、政談に聞き入ったりした。

明治16(1883年)政治家を志す。在京の叔父加藤拓川(かとうたくせん)を頼って上京。共立学校(現・開成高)入学。同じく伊予出身の秋山真之(後の海軍参謀)・南方熊楠(植物学者・人類学者)らと同級となる。

明治17年(1884年) 東京大学予備門入学し常盤会寄宿舎に入る。この前後から和歌や俳句を作りはじめ、ベースボール(野球)に熱中した。

明治22年(1889年)喀血し、「子規」と号する(「子規=ホトトギス」は血を吐くほど激しく啼くの意味から)。同人雑誌「七草集」を通して漱石と知り合う。いくつか小説を書きかけるが挫折。

明治25年(1892年)帝国大学国文科を中退し、新聞「日本」の記者となる。社長陸羯南(くがかつなん)の家の隣に住み、以後生涯にわたって羯南の庇護下に。翌26年「獺祭書屋俳話(だっさいしょおくはいわ)」を連載し、俳句革新のさきがけとなる。

明治28年(1895年)、日清戦争に従軍記者として志願し従軍。その帰途喀血し、脊椎カリエスとなる。以後の生涯を、ほとんど病床で過ごす。

明治31年(1898年)『歌よみに与ふる書』連載。長く詩歌の規範とされてきた『古今和歌集』を否定し、『万葉集』『金塊和歌集』を絶賛した。このころから俳句における「写生」の重要性を訴え、浪漫的な作風の与謝野鉄幹と対立した。

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