王維の生涯

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王維(699-761、759)。中国盛唐期の官僚・詩人・画家。字は摩詰。李白・杜甫につぐ大詩人で、李白の「詩仙」杜甫の「詩聖」に対し、熱心な仏教徒であったことから「詩仏」と称されます。最晩年の役職が「尚書右丞(しょうしょゆうじょう)」だったので「王右丞」とも呼ばれます。

韋応物、孟浩然、柳宗元と並び、唐の時代を象徴する自然詩人です。また送別歌・宮廷歌にも優れたものが多いです。

出生~青年時代

母は熱心な仏教徒で、王維は母の影響を強く受けて成長します。字の「維」と名の「摩詰」をつづけて読むと「維摩経」の主人公、維摩詰になります。9歳で詩を作るなどの秀才ぶりで、容姿は美しく音楽にも文学にも絵画にもすぐれていました。弟王縉と並び、秀才の兄弟として注目されました。

15歳のころ科挙の準備のために長安に上ると美貌と文才、音楽や絵画の才能でたちまち社交界の花形となります。

ある時、ある人が奏楽図を手に入れますが、曲名がわかりませんでした。王維は一目見て、「霓裳羽衣の曲の第三畳の第一拍です」と言い当てます。楽師を呼んで演奏させたところ、その通りだったので、人々は王維の音楽の才能にびっくりしたという逸話が残っています。

役人としての王維

開元7年(719年)21歳で進士に及第しますが、間もなく済州(山東省)に左遷されます。左遷の理由はハッキリしていませんが、一説には皇帝しか舞ってはいけない舞を舞ったといわれます。

開元14年(726年)頃、官職を辞して長安に戻ります。その頃妻が死去し、生涯再婚しませんでした。また長安の南の郊外のモウ川に土地を広大な土地を買い別荘を建てて隠居生活に入ります。しかし程なく人の推薦で政界に復帰。復帰後は順調に出世を重ねていきます。

この間、宮廷詩人としても活躍する一方、長安の南藍田山《らんでんざん》の山麓に広大な別荘モウ川荘を所有し、休日には友人たちを招いて風流にふけりました。モウ川荘もとは初唐の詩人宋之問の所有していた土地で、土地の名から「モウ川荘」と名づけました。

モウ川荘で王維が親友裴迪(はいてき)と交わした詩が、詩集「モウ川集」としてまとめられています。王維の詩20首、親友裴迪の詩20首、すべて五言絶句40首の連作で、モウ川荘を浄土に見立てた叙景詩の傑作です。

ことに別荘の一つ「竹里舘」の情景を歌ったその名も「竹里舘」は静かな雰囲気の詩で、今日でも人気が高いです。

竹里館 王維
独り坐す幽篁(ゆうこう)の裏(うち)
琴を弾じて復(また)長嘯(ちょうしょう)す
深林人知らず
明月来たりて相照らす

竹里館 王維
獨坐幽篁裏
彈琴復長嘯
深林人不知
明月來相照

【現代語訳】
一人ひっそりとした竹林の中に座り、
琴を弾いたり声をのばして歌ったりする。

深い林の中なので知る人はいない。
明月の光が降り注ぎ私を照らす。

阿倍仲麻呂を見送る

753年、長年玄宗皇帝のもとに仕えていた阿倍仲麻呂(中国名晁衡)が帰国することになると、王維は送別歌を詠んでいます。

秘書晁監の日本国に還るを送る
積水 極む可からず
安んぞ 滄海の東を知らんや
九州 何れの處か遠き
万里 空に乗ずるが若し
国に向かって惟(た)だ日を看(み)
帰帆は但(た)だ風に信(まか)すのみ
鰲身(ごうしん)は天に映じて黒く
魚眼は波を射て紅なり
鄕樹は扶桑の外
主人は孤島の中
別離 方(まさ)に域を異にす
音信 若爲(いかん)ぞ 通ぜんや

送祕書晁監還日本國
積水不可極
安知滄海東
九州何處遠
萬里若乘空
向國惟看日
歸帆但信風
鰲身映天黑
魚眼射波紅
鄕樹扶桑外
主人孤島中
別離方異域
音信若爲通

【現代語訳】
大海原の水はどこまで続くのか、見極めようが無い。
その東の果てがどうなっているのか、どうして知れるだろう。

わが国の外にあるという九つの世界のうち、
最も遠い世界、それが君の故郷、日本だ。

万里もの道のりは、さながら空を旅してるようなものだろう。

ただ太陽の運行と風向きに任せて進んでいくほかはないだろう。

伝説にある大海亀は黒々と天にその姿を映し、
巨大魚の目の光は真っ赤で、波を貫いくことだろう。

君の故郷日本は、太陽の昇る所に生えているという神木(扶桑)のはるか外にあり、その孤島こそが、君の故郷なのだ。

私たちは、まったく離れた世界に別たれてしまうのだ。
もう連絡の取りようも無いのだろうか。

捕虜となる~晩年

755年安禄山の乱が起こると王維は捕虜になり、不本意ながら安禄山に仕えます。後に解放されますが、玄宗にかわって皇帝になった粛宗に厳しく問い詰められます。

しかし、賊軍の中にあって天子をしたう詩を作っていたことと、刑部次侍郎(法務次官)であった弟王縉(おうしん)の取り成しで降格だけで済まされました。しかし王維は敵に仕えたことをいたく後悔し、出家を願い出ます。結局出家は許可されず、尚書右丞《しょうしょゆうじょう》(しょきちょうかん)まで進みますが、王維の仏教世界への思いは深まり、一方詩への関心は薄れていきました。

762年死去。死後弟王縉が王維の詩を皇帝代宗に献上しました。代宗は王維のことを「天下の文宗」と呼び讃えました。

画家としての王維

王維はまた絵にもすぐれ特に山水画を得意としました。みずからも「前世はまさに画師なるべし(前進応画師)(「偶然作」)」と詩の中で書いています。

宋代の詩人・蘇軾(そしょく 1037-1101)が王維を評して「詩中に画あり、画中に詩あり」と言った言葉は有名です。

また明代の書家・董其昌(とうきしょう 1555-1636)は王維のことを北宗画の李思訓(りしくん)に対し南宗画(文人画)の祖といい、これにより王維の書家としての名声はおおいに上がりました。

朗読:左大臣光永

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