本能寺 頼山陽(ほんのうじ らいさんよう)

▼音声が再生されます▼

本能寺 頼山陽
本能寺 溝幾尺
吾就大事在今夕
藁粽在手藁併食
四簷梅雨天如墨
老坂西去備中道
揚鞭東指天猶林
吾敵正在本能寺
敵在備中汝能備

本能寺(ほんのうじ) 頼山陽(らいさんよう)
本能寺(ほんのうじ) 溝(みぞ) 幾尺(いくせき)なるぞ
吾(われ) 大事(だいじ)を就(な)すは今夕(こんせき)に在(あ)り
藁粽(こうそう)手(て)に在(あ)り藁(こう)併(あわ)せて食(く)らう
四簷(しえん)の梅雨(ばいう) 天(てん) 墨(すみ)の如(ごと)し
老ノ坂(おいのさか) 西(にし)に去(さ)れば備中(びっちゅう)の道(みち)
鞭(むち)を揚(あ)げ 東(ひがし)を指(さ)せば天猶(てんな)お早(はや)し
吾(わ)が敵(てき)は正(まさ)に本能寺(ほんのうじ)に在(あ)り
敵(てき)は備中(びっちゅう)に在(あ)り、汝(なんぢ)能(よ)く備(そな)えよ

現 本能寺
現 本能寺

現 本能寺 信長公廟
現 本能寺 信長公廟

現代語訳

「本能寺の溝はどれほどの深さか」
明智光秀は部下に尋ねた。

(事を行なうのは今夜しか無い…)

心がはやりすぎたのだろうか、
光秀はちまきを皮ごと食べてしまった。

あたりには梅雨が降りしきり、
天は墨のように真っ黒だった。

光秀の軍勢は老ノ坂にさしかかる。
ここから西へ向かえば信長の命令どおり、
備中に出られる。

しかし光秀は逆に東に向かって鞭を上げる。
早朝のことで、空はまだ薄暗い。

「敵は本能寺にあり!」

光秀よ、本当の敵は備中の秀吉だったのだ。
秀吉に対してこそ、備えをすべきであったのに。

解説

本能寺の変は天正10年(1582年)6月2日、明智光秀が主君の織田信長を京都本能寺に襲い、自刃に追い込んだ事件。

本能寺跡
本能寺跡

本能寺跡
本能寺跡

織田信長は備中高松城で毛利勢と対峙している羽柴秀吉に加勢するため上洛し、四条坊門西洞院(しじょうぼうもんにしのとういん)に接する本能寺に宿所を取っていました。

一方の明智光秀は信長より秀吉に加勢するよう命じられ、丹波亀山城にて準備を整えていました。

丹波亀山城
丹波亀山城

丹波亀山城
丹波亀山城

丹波亀山城
丹波亀山城

6月1日夜10時頃、光秀は1万3000の軍勢を率いて老ノ坂を越え、命じられていた中国とは反対側、京都へと向かい、

本能寺の変
本能寺の変

翌6月2日未明、本能寺に信長を襲います。

本能寺の変
本能寺の変

「これは謀反か!いかなる者の企てぞ」信長が尋ねると小姓の森蘭丸が「明智という者のしわざのようです」

「なに光秀が!…それならば是非におよばず」

信長はまず弓で、次に槍で応戦するも力及ばず、奥の間に入り内側から納戸の戸を閉めて自刃しました。享年は「人間50年」に一年足らぬ49でした。

ついで光秀は新築二条御所に信長の嫡男信忠を襲い、これも自刃に追い込みます。

6月3日、備中高松城を包囲中の羽柴秀吉のもとに「織田信長討たれる」の報告が届きます。

羽柴秀吉は黒田官兵衛の助言により毛利との講和を急ぎ、城主の切腹・開城を条件に講和をまとめます。6月6日午後、陣払いをすませると高松を発ち、山陽道を東へ。「中国大返し」とよばれる強行軍で、沼城→姫路城→明石→尼崎と進み、6月12日、富田(とんだ)に入りました。

中国大返し
中国大返し

同日、光秀軍は大山崎に進み、天王山の東および北に布陣。この日は小競り合いのみで、翌13日夕刻から、大山崎のはずれを流れる円明寺川(現小泉川)をはさんで、戦いが始まりました。

円明寺川(現小泉川)
円明寺川(現小泉川)

天王山
天王山

秀吉方は秀吉直属軍に加え、織田信孝隊、丹羽長秀隊、池田恒興隊…あわせて4万弱。

一方、明智光秀は安土城や長浜城、坂本城の守りに兵力を割かれ、数を減らしていました。一時間ほどで切り崩されます。

明智光秀 本陣跡
明智光秀 本陣跡

光秀は本陣を引き払い、山崎北東の勝竜寺城(しょうりゅうじじょう。長岡京市勝竜寺)に退き、夜になってから、坂本城めざして落ちていく、その途中、農民による落ち武者狩りにあい、殺されました。

明智光秀胴塚(山科)
明智光秀胴塚(山科)

明智光秀首塚(東山)
明智光秀首塚(東山)

朗読:左大臣光永