頼山陽「母を送る路上の短歌」

こんにちは。左大臣光永です。

先日、京極通りに面した錦天満宮で、境内に湧き出ている湧き水を飲んでみました。まろやかで甘かったです。市販されているミネラルウォーターとは段違いのおいしさでした!

調べてみると桃山の御香宮(ごこうのみや)神社や、大阪水無瀬の水無瀬神宮など、神社の境内に湧き水が湧いており、しかも持ち帰ってもよいところがあるんですね。あちこちの水を飲み比べたら面白いと思いました。

本日は頼山陽の詩「送母路上短歌(母を送る路上の短歌)」を読みます。

送母路上短歌 頼山陽

東風迎母來
北風送母還
來時芳菲路
忽爲霜雪寒
聞鶏即裹足
侍輿足槃跚
不言兒足疲
唯計母輿安
獻母一杯兒亦飲
初陽滿店霜已乾
五十兒有七十母
此福人間得應難
南去北來人如織
誰人如我兒母歡

母を送る路上の短歌 頼山陽

東風(とうふう)に母を迎えて来たり
北風(ほくふう)に母を送りて還る
来たる時 芳菲(ほうひ)の路(みち)
忽(たちま)ち霜雪(そうせつ)の寒(かん)と為る
鶏(とり)を聞きて即ち足を裹(つつ)み
輿(こし)に侍(じ)して足は槃跚(ばんさん)
児(じ)は足の疲れを言わず
唯だ母の輿(こし)の安きを計るのみ
母に一杯を献じて児も亦(ま)た飲む
初陽 店に満ちて霜已(すで)に乾く
五十の児に七十の母あり
此(こ)の福 人間(じんかん)に得(う)ること応(まさ)に難し
南去北来(なんきょほくらい) 人織るが如きも
誰人(たれびと)か我が児母(じぼ)の歓(かん)に如かん

【現代語訳】
春風が吹く頃、母を京都に迎え来て、
北風が吹く中、母を広島に送って帰る。

来たときは花の香りがただよっていた道だったが、
あっという間に霜と雪のふる寒さとなった。

鶏の声をきいてすぐに草鞋をはき、
私は母を乗せた輿のそばに控えて、よたよた歩いていく。

子は足の疲れを言わない。
ただ母の輿が楽であることを思うのみだ。

(とちゅうの茶店にて)母に一杯の酒を献じて子もまた飲む。
朝日が茶店の中に満ちて霜はもう乾いた。

五十の子に七十の母がある。
この幸福は、人の世にめったにないことだ。

南に去り、北に行く人は織るがごとくに多いが、
誰が我々親子のような喜びを持つだろうか。

【語句】
■芳菲 草花のよいにおいがすること。 ■裹足 ここでは草履を履くことと見る。 ■槃跚 片足をひきずりながら歩く。疲れてよろめいている様子。 ■初陽 朝日。

【作者】
頼山陽。江戸後期の儒学者・詩人・歴史家。本名頼襄(のぼる)。山陽、三十六峰外史と号す。安永9年(1780)儒学者頼春水の長男として大坂に生まれる。

幼少時から詩文・歴史に興味をしめした。

天明元年(1781)父が出身地広島藩の儒者として招かれたのにともない広島に移る。まず広島藩学問所、次に叔父の頼杏坪(らい きょうへい)に学び、江戸の昌平黌にも学んだが、放蕩生活で身を持ち崩し、広島にもどる。

その後精神が不安定になり、寛政12年(1800)家出して上洛を試みる。すぐに連れ戻され、脱藩のため廃嫡、自宅の座敷牢に幽閉される。

幽閉中の三年間は存分に執筆活動に専念できた。この時『日本外史』の執筆に着手。

謹慎が解けた後は広島藩学問所の助教、菅茶山の主催する廉塾(れんじゅく)(備後国、広島県福山市神辺町)の塾頭に就任するも飽き足らず、

文化8年(1811)32歳の時、京都に出て私塾を開き、

文化13年(1816)父春水が没するとその遺稿をまとめて『春水遺稿』として上梓。

文化15年(1818)九州に旅行し、広瀬淡窓らと交流。旅中の経験から「泊天草洋(天草洋(あまくさなだ)に泊(はく)す)」など多くの名作が生まれた。

文政5年(1822)上京区三本木に東山を眺望できる邸宅を構え、「水西荘」と号す。後に山紫水明処とあらためる(京都市上京区南町東三本木通丸太町上る)。

この場所で執筆活動に専念。文政9年(1826)『日本外史』を完成し、翌文政10年(1827)老中松平定信に献上。

『日本外史』はその後、幕末の尊皇攘夷志士たちの大きな原動力となる。

(安政の大獄で処罰された頼三樹三郎は山陽の三男)

天保3年(1832)死去。享年53。

墓は京都市東山区の円山公園東の長楽寺にある。

山陽は親孝行で知られ、年老いた母・静が毎年京都に遊びに来ると、ふだんは質素な生活なのに物惜せず大歓迎しました。母静は芝居好きで酒と煙草をたしなむ派手好きの女性でした。

ある時は島原の「角屋」で芸妓を上げて母子で豪遊しました。

この詩は京都で過ごした母を広島に見送るときの詩です。母と子のほのぼのした関係が伝わってきて、温かいかんじの詩ですね。

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朗読:左大臣光永