よくわかる漢詩の知識(六)漢詩の時代区分~初唐・盛唐・中唐・晩唐

本日は「よくわかる漢詩の知識(六)漢詩の時代区分~初唐・盛唐・中唐・晩唐」です。

漢詩≒唐詩

「漢詩」というと、狭い意味では漢の時代の詩を言うわけですが、広い意味では「中国の古典詩全般」を指します。また、「中国の古典詩全般」の中でも特に唐の時代の詩「唐詩」をさす場合も、あります。つまり「漢詩」と言って、=唐詩という意味で言うケースです。

それだけ、唐の時代の詩「唐詩」というものは表現にすぐれ、完成されていて、代表選手扱いなんですね。

唐の時代

唐の時代、というと…どんなイメージがありますでしょうか?

唐王朝は618年初代高祖李淵によって建国され、907年20代昭宣帝の時滅びました。約300年間続きました。領土はこれまでになく広大になり、遠く中央アジア・インド・地中海沿岸まで交通が開け、さまざまな文物が流入しました。首都長安は当時最大の都市として栄えました。

しかし755年に勃発した安史の乱によって豊かだった国土は8年間にわたって破壊され、首都長安も副都洛陽も、焼け野が原となってしまいます。以後、唐王朝は衰退の道をたどりました。そして詩人たちの作品の上にも、唐王朝の繁栄と衰退が、色濃くあらわれています。

日本では。

唐が建国された西暦618年というと…推古天皇の26年。聖徳太子や蘇我馬子が活躍した時代です。やがて乙巳の変・大化の改新を経て、天皇家を二分した古代最大の内乱・壬申の乱が起こります。

持統天皇による藤原京遷都。そして元明天皇による平城京遷都を経て、七代にわたる奈良の都の繁栄があって、桓武天皇の時に長岡京へ、ついで平安京へ遷都します。そして醍醐天皇の時に唐王朝が滅びました。菅原道真の提案により遣唐使を廃止したのが894年。それから13年後に唐が滅びたわけですから…やはり道真には先見の明があったようですね。

初唐・盛唐・中唐・晩唐

さて一言で唐の時代といっても長いですから、文学史の上では四つの時期に分けます。

初唐
盛唐
中唐
晩唐

です。

初唐…高祖李淵による建国(618年)から第五代睿宗(えいそう)皇帝の延和年間までの約100年間。
盛唐…第六代玄宗皇帝の開元元年(713)から第八代代宗(だいそう)皇帝の永泰年間までの約50年間。
中唐…第八代代宗(だいそう)皇帝の大暦元年(766)から第十四代文宗皇帝の大和末年までの約70年間。
晩唐…第十四代文宗皇帝の開成元年(836)から第20代昭宣帝の天祐末年(907)に唐王朝が滅びるまで。

それぞれの時代の作風と、代表的な詩を見て行きます。

初唐

高祖李淵による建国(618年)から第五代睿宗(えいそう)皇帝の延和年間までの約100年間。唐王朝が建国されて間もない頃です。そのため詩も勢いがあり力強い「ますらおぶり」を感じさせます。

平仄や韻など、詩の基本的なルールが次第に整えられていきました。王勃(おうぼつ)・楊炯(ようけい)・盧照鄰(ろしょうりん)・駱賓王(らくひんのう)は初唐四傑と称されます。

易水送別 駱賓王
此地別燕丹
壮士髪衝冠
昔時人已没
今日水猶寒

易水送別 駱賓王
此地 燕丹に別れ
壮士 髪 冠を衝く
昔時 人 已に没し
今日 水 猶寒し

この易水のほとりこそ刺客の荊軻が燕の太子丹に別れた場所だ。
その時、壮士(血気さかんな男児)の髪の毛は悲憤のあまり、冠を衝き上げるほどであった。

そういった昔の人々はすでに没して遠い過去の話となったが、
今日も易水の水は寒々と流れている。

『史記』の「刺客列伝」にある荊軻の話を元にした詩です。

戦国時代の末、燕の太子丹は秦王政(後の始皇帝)に恨みを抱き、刺客の荊軻を雇って暗殺させようとしました。

見送りの人々は喪服を着て易水のほとりまで荊軻を見送りました。その場面を歌った詩です。

盛唐

第六代玄宗皇帝の開元元年(713)から第八代代宗(だいそう)皇帝の永泰年間までの約50年間。平仄や韻のルールも完成し、もっとも詩が栄えた時期です。おなじみ李白・杜甫・王維をはじめとして、賀知章(がちしょう)、孟浩然(もうこうねん)、高適(こうせき)、岑参(しんじん)、王昌齢(おうしょうれい)、王之渙(おうしかん)、王翰(おうかん)など、綺羅星のような詩人たちが盛唐期には名をつらねています。

教科書に出てくるのは、ほとんどがこの盛唐期の詩人です。代表作は多すぎるのですが、やはり有名どころを。

春暁 孟浩然

春眠不覚暁
処処聞啼鳥
夜来風雨声
花落知多少

春眠暁を覚えず、
処処に啼鳥を聞く。
夜来風雨の声、
花落つること知んぬ多少ぞ。

春の夜の眠りは心地よく、朝が来たのにも気づかなかった。
あちらでもこちらでも鳥が啼くのが聞こえる。

昨夜は一晩中、雨まじりの風が吹いていたが、
花はどれくらい散ってしまっただろうか。

華やかなりし盛唐期でしたが、玄宗皇帝の755年に安史の乱が起こり、国土は破壊し尽されました。以後、唐王朝は衰退していきます。安史の乱による破壊は詩人たちの作品の上にも暗い影を落としています。

中唐

第八代代宗(だいそう)皇帝の大暦元年(766)から第十四代文宗皇帝の大和末年までの約70年間。詩の形式については盛唐期にすっかり完成してしまい、以後、発展は無いです。

中唐期の詩は、盛唐期のようなダイナミックさが無くなり、あっさりと落ち着いた作風が好まれました。安史の乱の破壊を経て、人々が変化よりも安定を。改革よりも調和を求めた結果でしょうか。

中唐期最大の詩人は、なんといっても白居易(白楽天)です。白楽天は友人の元稹(げんしん)とともに、簡単な言葉で詩を作ろうと主張しました。そのわかりやすい作風は「元白体」と言われます。

対酒 白楽天
蝸牛角上争何事
石火光中寄此身
随富随貧且歓楽
不開口笑是痴人
酒に対す

酒に対す 白楽天
蝸牛角上 何事をか争う
石火光中 この身を寄す
富に随い貧に随いて且く歓楽せん
口を開いて笑わざるは是痴人

カタツムリの角の上のような狭い世界で何をそんなに争うのだ。

一瞬のきらめきような、短い人生に身を寄せているのだ。
富める者も貧しい者も、おのおの楽しもうではないか。

押し黙っているのはバカというものだ。

日本では藤原公任が『和漢朗詠集』で白楽天に注目して以来、白楽天の詩は大いに好まれました。清少納言の『枕草子』に白楽天の詩は何箇所も引用されています。王朝貴族の基礎教養のように見なされていました。言葉のわかりやすさ故に、白楽天の詩は日本人から受け入れられたのでしょう。

白楽天の他には、韓愈(かんゆ)・韋応物(いおうぶつ)・柳宗元(りゅうそうげん)が有名です。韋応物・柳宗元は盛唐期の王維・孟浩然の作風に学んだので、この四人は「王・孟・韋・柳」と並び称されます。

晩唐

第十四代文宗皇帝の開成元年(836)から第20代昭宣帝の天祐末年(907)に唐王朝が滅びるまで。社会不安はいよいよ増し、それを反映して詩の作風も弱弱しく感傷的になっていきます。盛唐期のダイナミックで活き活きした作風はすっかり消えてしまいました。そんな時代にあって杜牧(とぼく)・李商隠(りしょういん)・温庭筠(おんていいん)の三人の名は強く今日まで伝わっています。

中でも杜牧は七言絶句にすぐれ、盛唐風の骨太でしかも抒情豊かな詩を作りました。盛唐の杜甫を「老杜」というのに対して「小杜」と言われます。

江南春絶句 杜牧
千里鶯啼緑映紅
水村山郭酒旗風
南朝四百八十寺
多少楼台煙雨中

江南春絶句 杜牧
千里鶯啼いて緑紅に映ず
水村山郭酒旗の風
南朝四百八十寺
多少の楼台煙雨の中

そこらじゅうで鶯が啼き木々の緑が花の紅色と映しあっている。
水際の村でも山沿いの村でも酒屋ののぼりがたなびいている。

古都金稜には南朝以来のたくさんの寺々が立ち並び、
その楼台が春雨の中に煙っている。

以上、初唐・盛唐・中唐・晩唐という時代区分と、だいたいの特徴を見てきました。「初唐・盛唐・中唐・晩唐」という言葉は漢詩の本を読むと必ず出てきます。だいたいこういう時代で、こういう作風だなァと、おぼろげながらも覚えておけば、漢詩を学ぶ際の手助けになります。

朗読:左大臣光永

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