飲酒 陶淵明

本日は陶淵明の「飲酒」を読みます。20首の連作のうちの第5首で、陶淵明の代表作です。陶淵明の詩で唯一暗唱するなら、これを!というものです。

飲酒
結盧在人境
而無車馬喧
問君何能爾
心遠地自偏
采菊東籬下
悠然見南山
山気日夕佳
飛鳥相与還
此中有真意
欲弁已忘言

酒を飲む
盧を結んで人境にあり
而も車馬の喧(かまびす)しき無し
君に問う何ぞ能く爾ると
心遠ければ地自ずから偏なり
菊を采る東籬の下
悠然として南山を見る
山気 日夕に佳く
飛鳥 相与(とも)に還る
此中に真意あり
弁ぜんと欲して已に言を忘る

現代語訳

人里に庵を結んで住んでいるが、
車の走る騒々しい音は聞こえない。

「どうしてそんなノンビリができるんだ?」

「心が俗世から離れていれば、
自然と僻地にいるような気分になるもんだよ」

東の垣根のところで菊を取ったり、
のんびりと南山を眺めたりしている。

山の空気は夕方が特に素晴らしく、
鳥は連れ立って巣に還っていく。

こんな暮らしの中にこそ真意はあるのだ。
説明しようとするそばから、もう言葉を忘れてしまう。

語句

■人境 人里。 ■問君 「君」は陶淵明。自問自答している。 ■心遠地自偏 心が俗世間から離れていれば、(たとえ町中に住んでいても)辺鄙な地に住んでいるような落ち着いた気持ちになれる。 ■東籬 東側のまがき。 ■南山 陶淵明の住んでいた廬山をいう。 ■山気 山の気配。 ■日夕 夕方。

解説

「菊を采る東籬の下 悠然として南山を見る」…
この二句が古来親しまれてきました。

陶淵明42歳ころの作。「飲酒」と題する一連の作品の中の20首のうちの五首目。 酒を歌ったわけではなく、酒を飲んで気ままに書き綴った詩、という意味です。

実際にはわりと人里ちかくに住んでいるのに、余裕のあるノンビリした気持ちを持っているがために、まるで山奥で暮らす仙人のような境地になれる…

心の持ちよう次第だ、というわけです。

夏目漱石の『草枕』で言及されています。

「うれしい事に東洋の詩歌にはそこを解脱したのがある。採菊東籬下、悠然見南山。只それぎりの裏に暑苦しい世の中を丸で忘れた光景が出てくる。垣の向ふに隣りの娘が覗いてゐる訳でもなければ、南山に親友が奉職して居る次第でもない。超然と出世間的の利害損得の汗を流し去つた心持ちになれる」(夏目漱石『草枕』より)

歌の心は、小倉百人一首の喜撰法師の歌に通じるものを感じます。

わが庵は都の辰巳しかぞすむ世をうぢ山と人は言ふなり

(私の庵は都の東南、宇治山にある。こんなふうにノンビリくらしているよ。それなのに人は宇治山だけあって憂し…憂鬱な山だなんて言うそうだ)

私は、喜撰法師は陶淵明の詩を意識してこの歌をつくったと確信しています。

京都と宇治の、近いとはいえないが、きわめて遠いというほどでもない、ほどほどの距離感が、陶淵明の「結盧在人境、而無車馬喧」の境地に通じています。

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朗読:左大臣光永