【漢詩】菅原道真「不出門」

菅原道真「不出門(門を出でず)」。大宰府での配流生活中の思いを詠んだ詩です。
 

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不出門 菅原道真
一從謫落就柴荊
万死兢兢跼蹐情
都府楼纔看瓦色
観音寺只聴鐘声
中懐好逐孤雲去
外物相逢満月迎
此地雖身無檢繋
何為寸歩出門行

門(もん)を出(い)でず 菅原道真(すがわらのみちざね)
一(ひと)たび謫落(たくらく)せられて柴荊(さいけい)に就(つ)きて従(よ)り
万死兢兢(ばんしきょうきょう)たり 跼蹐(きょくせき)の情(こころ)
都府楼(とふろう)は纔(わずか)に瓦(かわら)の色(いろ)を看(み)、
観音寺(かんのんじ)は只(た)だ鐘(かね)の声(こえ)を聴(き)く
中懐(ちゅうかい)は好(よ)く孤雲(こうん)の去(さ)るを逐(お)い
外物(がいぶつ)は相(あ)い逢(お)う満月(まんげつ)の迎(むこ)ふるに
此(こ)の地 身(み)に檢繋(けんけい)無(な)しと雖(いえど)も
何為(なんす)れぞ寸歩(すんぽ)も門(もん)を出(い)でて行(ゆ)かん

現代語訳

ひとたび官位を追われ流されて、このあばら屋住まいとなってからというもの、

いつ死んでもおかしくない恐怖にビクビクして、ちぢこまって小股で歩いているような心持だ。

大宰府政庁の高楼は、わずかに瓦の色を見るだけで、
観世音寺はただ鐘の声をきくだけだ。

心の中はちぎれ雲のゆくのを追って遠くへ去ってしまっている。
外の世界としては、満月が自分を迎えるように夜ごと出るだけだ。

この身は手を縛られて繋がれているわけではないが、
どうしてちょっとでも門を出たいと思えるだろうか。

菅原道真の大宰府配流について詳しい解説はこちら

「太宰府を歩く」はこちら

語句

■謫落 官位から落とされて流されること。 ■柴荊 柴と荊で、あばら屋。 ■万死兢兢 こうなったら命は無いとビクビクする。 ■跼蹐 ちぢこまって小股で歩くこと。 ■都府楼 大宰府の政庁正面にあった高楼。 ■観音寺 大宰府の観世音寺。古く天智天皇が亡母斉明天皇を祀って建てたという。 ■中懐 心の中。 ■孤雲 ちぎれ雲。 ■外物 外の世界。 ■檢繋 手をくくられて繋がれていること。

解説

昌泰4年(901)、右大臣菅原道真は突如、大宰権帥(だざいのごんのそち)に左遷され、大宰府送りとなります。

「菅原道真は寒門(身分の低い家)から大臣に取り立てられたのに、分際をわきまえず、専横の心あり。(宇多)上皇をたぶらかし、(醍醐)天皇の廃立をはかった」

というのが公式の発表でした。

これは左大臣藤原時平はじめ反対派による讒言であろうというのが定説になっています。

約2年間の大宰府配流生活の末、延喜3年(903)2月25日、菅原道真は亡くなりました。

大宰府の配所生活は惨めなもので、みすぼらしいあばら家を宿所として、床は朽ち、竹垣は荒れ放題、屋根は覆いの板もなく雨漏りがするという具合でした。

道真はこの間の心境を46篇の詩にあらわしています。題して『菅家後集(かんけこうしゅう)』。

……

精神的にまいってる様子が伝わってきますね。

延喜3年(903)2月25日、ついに亡くなります。遺骸は遺言により大宰府に葬られます。享年59。そこに後に建てられたのが、安楽寺というお寺です。後に太宰府天満宮となります。

朗読:左大臣