九日斉山登高 杜牧(きゅうじつせいざんにとうこうす とぼく)

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九日斉山登高 杜牧
江涵秋影鴈初飛
与客携壺上翠微
塵世難逢開口笑
菊花須挿満頭帰
但将酩酊酬佳節
不用登臨恨落暉
古往今来只如此
牛山何必独霑衣

九日(きゅうじつ)斉山(せいざん)に登高(とうこう)す 杜牧(とぼく)
江(こう)は秋影(しゅうえい)を涵(ひた)して 鴈(がん)初(はじ)めて飛(と)び
客(かく)と壺(つぼ)を携(たずさ)えて 翠微(すいび)に上(のぼ)る
塵世(じんせい) 逢(あ)い難(がた)し 開口(かいこう)の笑(わら)い
菊花(きくか) 須(すべから)く満頭(まんとう)に挿(さ)して帰(かえ)るべし
但(た)だ酩酊(めいてい)を将(もっ)て佳節(かせつ)に酬(むく)いん
用(もち)いず 登臨(とうりん)して落暉(らくき)を恨(うら)むを
古往今来(こおうこんらい) 只(た)だ此(か)くの如(ごと)し
牛山(ぎゅうざん) 何(なん)ぞ必(かなら)ずしも 涙(なみだ)衣(ころも)を霑(うるお)さん

現代語訳

川の水は秋の景色を映し、初雁が飛んでいる。
そんな中、客人と二人、トックリを下げて青々とした山に上る。

このせちがらい世の中では、大口を開けて笑えることなど滅多に無い。
せめて今日くらいは菊の花を頭いっぱいに挿して帰ろうよ。

めいっぱい酔ってこの節句に報いよう。
高台に上って夕陽を見て、晩年を嘆く?そんなのはつまらんことだ。

どうせ昔から世の中こんなもんだ。
牛山で老いと死の到来を嘆いて涙に衣を浸した昔の人の気がしれないですよ。

語句

■斉山 安徽省池州市の東南郊外にある小高い山。 ■登高 重陽の節句に家族で山や丘に登る風習。椒(ハジカミ)の葉を冠に挿し、菊酒を飲んで長寿を祈る。 ■秋影 秋の光。 ■客 客人。旅人。長江下流の丹陽郡(鎮江市の南。揚州の対岸)から訪れた張祜。このとき、杜牧は池州刺史であり、高齢の詩人張祜を客人として迎え、重陽の節句を斉山に楽しんだ。 ■翠微 うす青いもや。ここでは斉山。 ■塵世 汚れた俗世間。 ■開口笑 『荘子』盗跖篇に「人、上寿は百歳、中寿は八十、下寿は六十なるも、病痩・死喪・憂患を除けば、其の中に口を開いて笑うは、一月の中、四、五日に過ぎざるのみ」。白居易「友の至れるを喜び留宿せしむ」に「人生 口を開いて笑うは、百年 都(すべ)て幾回(いくたび)ぞ」。 ■挿満頭 重陽の節句は髪にハジカミの葉を挿すが、菊の花を挿すこともあった。 ■酬 酬(こた)える。報いる。受けたことに対して、それにふさわしい行為を相手に返す。 ■登望 高所に登って眺める。 ■落暉 夕日。晩年の象徴。 ■只 ひたすら。 ■牛山 山東省淄博市の山。春秋時代、斉の景公は牛山に登り国見をして、なぜこの美しい国を見捨てて死んでいかねばならないのかと嘆いた。「寡人(われ)、将(まさ)に此(ここ)を去って何くにか之かんとする。俯(ふ)して、泣(なみだ) 襟を沾(うるお)す」(『韓詩外伝)。

解説

王維「九月九日山東の兄弟を憶う」と同じく、九月九日重陽の節句のことを歌ってます。この日、中国では高台に上って頭に菊花やシュユの花を挿して邪気払いのために菊酒を飲む習慣がありました。

ウツウツとして、ままならない毎日なんだ、せめてこの日くらいはワッと楽しくいきましょうやという詩です。

「牛山」は山東省南部にある山です。春秋時代の斉の景公がこの山に登り、自分が治める国土を見下ろして、「なぜこの美しい国土を捨てて死んでいかないといけないのか!」と言って嘆いたといいます。

だが私はそんな嘆きはいやだ、人生楽しむのだという姿勢です。

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朗読:左大臣光永

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