胡笳の歌 岑参

こんにちは。左大臣光永です。
日曜日の夜。いかがお過ごしでしょうか?

私は秋の夜は落ち着くので、大好きです。
仕事にしても、酒にしても、どっぷり没頭できるのがいいですね。

さて本日は、いただいたお便りから、
リクエストにお応えする形でお話します。

岑参「胡笳の歌、顔真卿の使して河隴に赴くを送る」です。


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長安からはるかかなたの西域に赴任していく
友人・顔真卿を見送って、作者が歌った歌です。

遠い西域地方では異民族(胡人)が胡笳(こか)という
笛をかなでているという。
その音色はもの悲しくて、国境を警備する兵士たちは
涙にくれるという。遠く旅立っていく君へ、
その、胡人の歌を送ろうといった内容です。

はじめに書き下し文で、次に現代語訳でお読みします。

胡笳歌送顏眞卿使赴河隴 岑参

君不聞胡笳聲最悲
紫髯綠眼胡人吹
吹之一曲猶未了
愁殺樓蘭征戍兒
涼秋八月蕭關道
北風吹斷天山草
崑崙山南月欲斜
故人向月吹胡笳
胡笳怨兮將送君
秦山遙望隴山雲
邊城夜夜多愁夢
向月胡笳誰喜聞

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胡笳の歌 顔真卿が使して河隴(かろう)に赴(おもむ)くを送る
岑参

君聞かずや、胡笳(こか1)の聲(こえ) 最も哀しきを。
紫髯(しぜん) 緑眼の故人吹く
之(これ)を吹くこと一曲 猶 未だ了らざるに、
愁殺す楼蘭征戍の児
涼秋八月 蕭關(しょうかん)の道
北風吹き断つ 天山の草
崑崙山南 月斜(ななめ)ならんと欲す。
胡人 月に向って胡笳を吹く
胡笳の怨 将(まさ)に君を送らんとす。
秦山(しんざん) 遥(はるか)に望む 隴山(ろうざん)の雲
邊城(へんじょう) 夜夜(やや) 愁夢多し。
月に向って胡笳 誰か聞くことを喜ばん

現代語訳

君は聞かないだろうか。
胡人(異民族)が吹く笛の音が切々と悲しく響くのを。
紫の髯、緑の眼の胡人が吹いているのだ。

これを一曲吹いて、まだ吹き終わらないうちに、
楼蘭の国境警備の兵士たちは、愁いで胸がいっぱいになる。

涼しい秋のさなかの八月、蕭關(しょうかん)の道では
北風が吹いて、天山の草を吹きちぎり、舞い上がらせる。

伝説にある崑崙山では月が斜めに傾こうとしている。
胡人は月に向かって笛を吹く。

私は今、胡人の笛のかなでる歌のうらみを歌って、
遠く河隴(かろう)に旅立っていく君を見送ることにしよう。

ここ長安から君が行く隴山(ろうざん)の雲を、
はるかに望むのだ。

辺境の町町では、夜毎、もの悲しい夢を見ることだろう。

月に向かって吹く胡人の笛の音を
誰が喜ばしく聞くだろう。愁いに満たされるので、
誰も喜ばしくは、思わない。

語句

■胡笳 胡人が葦の葉を巻いて吹く楽器。後にはそれを模して作った竹製の楽器。 ■顔真卿 (709-785)。盛唐の書家。役人。玄宗、粛宗、代宗、徳宗四代の皇帝に仕えた。陝西長安の生まれ。字は清臣。734年26歳で進士。安禄山の乱では常山大守叔父顔杲卿(がんこうけい)とともに反乱軍に抵抗した。李希烈の氾濫を鎮撫のためにさとしに行って捕えられ、河南省竜興寺で殺された。書家としても有名で、虞世南、欧陽詢、チョ遂良と並び唐四大家と称せられる。その書体は肉太でどっしりしており、優美な初唐に流行した王羲之(303-361)風の優美さとはまったく方向が異なる。 ■河隴 甘粛省蘭州府狄道(てきどう)。 ■胡人 西方や北方の異民族。ここではイラン系と思われる。 ■最悲 悲しさの程度がはなはだしいこと。 ■愁殺 とても愁い深いこと。「殺」は程度がはなはだしいことを差す助語。 ■楼蘭 漢代に西域にあった国名。(現新疆ウイグル自治区チャルクリク)。ロプノール湖西岸に位置し、シルクロードの西域南道と天山南路の分岐点にある交通の要衝として栄えた。後にゼン善と名前を漢風にあらためたが、楼蘭の地名は異国情緒をともなうものとして使われ続けた。 ■征戍児 国境守備の兵士。 ■涼秋八月 漢の「李陵の蘇武に答ふる書」の「涼秋八月 塞外草衰ふ」に基づく。 ■蕭關 甘粛省と鎮原と固原の間にあった関所。長安から約300キロメートル北西に位置する要衝。 ■天山 新疆省中央を東西に走る山脈。 ■崑崙山 中国の伝説上の山。仙女の西王母が住むとされる。崑崙山の南に天竺があると考えられていた。 ■秦山 長安の南に続く山脈を秦嶺という。ここでは顔真卿の行先である隴山に対して、作者の住む長安一帯を指す。 ■隴山 陝西・甘粛両省の境にある山脈。古来、長安から西域へ通じる関門の役目を果たした。 ■辺城 辺境の町。中国の町は壁で囲まれた城塞都市なので城といえば町のこと。

解説

748年顔真卿は監察御吏(かんさつぎょし)として西域河隴の地へ赴任します。それを見送る岑参が詠んだ詩です。顔真卿は安禄山の乱に際し反乱鎮圧に功績がありましたが、その後、李希烈の叛乱を鎮圧しようとして殺害されます。玄宗・粛宗・代宗・徳宗の四代の皇帝に仕え中国史上、屈指の忠臣といわれます。

また顔真卿は書家としても有名で、王義之以来の優雅で繊細な筆運びに対して、骨太でドッシリした筆運びに特徴があります。安史の乱で反乱軍に処刑された従兄弟の顔杲卿(がんこうけい)とその一族をいたんで書いた「祭姪文稿(さいてつぶんこう)」は中国史上屈指の名文といわれます。

作者

岑参(715-770)。盛唐の詩人。字は不明。荊州江陵(湖北省)の人。744年の進士。安西節度使、安西北庭都護の書記官として二度西域へ赴き、その経験をもとに詩を作った。

757年皇帝粛宗の鳳翔の行在所に駆けつけ、杜甫の推薦により右補闕(うほけつ)となり、この年の10月、粛宗に従って長安に帰る。759年に虢州(かくしゅう)の長史。代宗の時代に入って762年太子中充・殿中侍御史。関西節度判官を兼任。765年嘉州の刺史(しし)となった。

768年官を辞して故郷河南省南陽に戻ろうとしたが、反乱軍に阻まれ成都に留まり、成都に没する。享年56。

異国の風物や異文化のエキゾチックな感じを取り入れて独自の作品群を作り上げ辺塞詩人とよばれた。辺塞詩の分野では高適も有名で「高岑」と並び称される。

嘉州(四川省)の刺史(しし)をつとめたことから岑嘉州とよばれる。401篇の詩と1篇の散文が伝わる。南宋の詩人陸游に熱愛された。

朗読:左大臣