安史の乱一 ~玄宗と安禄山

9年間にわたって戦われ、豊かだった国土を
破戒し尽くした、唐王朝最大の内乱、安史の乱。

李白や杜甫といった詩人たちの作品の
上にも、安史の乱の影響は色濃く出ています。

なので、安史の乱の流れを知っておくと、
漢詩を読む上で、とても理解が深くなるはずです。

挙兵の知らせ

「まさか!
何かの間違いでは無いのか!」

755年11月。

長安・華清宮の
玄宗皇帝のもとに、節度使の安禄山が
反乱を起こしたという知らせが届きました。

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「あの忠誠厚い安禄山が…まさかまさか」

「陛下、だから日ごろから申し上げていたのです。
安禄山は危ないです。必ず背きますと」

宰相の楊国忠が、それ見たことかという顔で
言います。

華清宮には次々と報告が届いていました。

「すでに太原は落とされました!
反乱軍は20万の大軍で黄河を渡り…
一路、洛陽を目指しています」

安史の乱
【安史の乱】

「ぐぬぬぬ…禄山め!」

ここに至り、玄宗皇帝もようやく安禄山の忠誠は
演技に過ぎなかったことに、
この日を虎視眈々と狙っていたことに
気づかされたのでした。

玄宗皇帝はすぐさま安禄山の長男・安慶宗(あんけいそう)と
妻の康氏を処刑し、安禄山追討のため、
高仙芝(こうせんし)ら20万の軍勢を差し向けます。

「逆賊安禄山を討て!必ず血祭りに上げろ!!」

安禄山 その出自

安禄山(705-757)の父はイラン系ソグド人、
母はトルコ系突厥の出身と言わます。

「禄山」の名はソグド語の「光」をあらわす
「ロクサン」を漢字にあてはめたものと思われます。

幼い頃に父が亡くなり、母は幼い禄山を連れて
突厥の有力者、安延偃(あんえんえん)と再婚します。
以後、「安」の姓を名乗ることとなりました。

禄山が育った営州(遼寧省 りょうねいしょう)は
周囲を高句麗、契丹、渤海、突厥に接し、
国際色豊かな環境であり、禄山は六ヶ国語を自由に操ることができました。

その能力を買われた禄山は、周辺諸民族との貿易・交渉を行う
互市牙郎(ごしがろう)という下級の役人として採用されます。

安禄山はずる賢く、残忍で、
人に取り入るのに長けていました。

まず幽州節度使・張守珪(ちょうしゅけい)に取り入ります。
そして同郷の史思明とともに張守珪の下で
契丹(きったん)、奚(けい)、室韋(しつい)、
靺鞨(まつかつ)など異民族を相手に戦い、手柄を立てます。

安禄山は武勇にすぐれていただけでなく愛嬌もあったようです。

張守珪にいたく気に入られ、養子にされます。
以後、安禄山は出世街道をひた走ります。

742年平盧節度使、744年范陽節度使、
751年河東(かとう)節度使に任じられ…

安禄山は三節度使を兼任し
唐王朝の辺境守備隊の三分の一の兵力を握るに至りました。

節度使と唐王朝の拡張政策

ここで「節度使」について解説します。

唐王朝の歴代皇帝は領土の拡大につとめました。
突厥などの周辺民族を支配し、7世紀には西は中央アジア、
東は朝鮮、南はベトナム(安南)にまで領土を広げます。

7世紀末、第三代皇帝高宗の時代に
唐の領土は最大となります。

シルクロードや運河、海上の道を通じて
さかんに東西の交易が行われ、長安は国際都市として
栄えました。

しかし、これだけの広大な領土を支配するのに
自国民の徴兵だけではとうてい、まかないきれませんでした。

そこで考えられたのが、夷をもって夷を制するとも
言うべき政策です。

つまり、征服した諸民族を傭兵として金で雇い、
国境警備に当たらせることにしました。

その、金で雇った傭兵をまとめる
長官が、節度使です。

玄宗皇帝は辺境10カ所に節度使を置き、
各節度使には中央政権からほぼ独立した
行政権と軍事力を与え、周辺諸民族への
にらみをきかせました。

「ふふふ。これでわが王朝は安泰」

油断しきっていた玄宗皇帝。

しかし

本来国外へ向けられるべき武力が
ひとたび国内に対して向けられた時、
どれほど恐ろしいことになるか…。

誰も、想像することもできませんでした。

ただ赤心のみ

三節度使を兼任した安禄山は玄宗皇帝と
楊貴妃にたくみに取り入りました。

「そちが安禄山か。いつも多くの貢物を
感謝しておるぞ」

「陛下、勿体無きお言葉です」

「いや、それにしても…」

玄宗皇帝は、安禄山の見事な腹に注目します。

安禄山は180キロを越える巨体で、
腹が膝まで垂れていました。
歩くときは巨大な腹を左右から召使に支えさせました。

「その腹の中には何が入っているのだ?」

すると安禄山は見事に垂れ下がった腹をパーンと叩いて、
言いました。

「ただ陛下に対する忠誠心だけが
つまっております」

(うーん…可愛げのある男じゃ)

また安禄山はそれほどの巨体にも関わらず、
実に軽やかに舞い踊りました。

ひらり、ひらりともの凄い軽業で、
異民族の踊りを踊りました。

そのたびに安禄山の見事な腹がたゆん、たゆんと揺れます。

「やあ面白い。なんとも愉快」

こうして玄宗皇帝は安禄山を贔屓するように
なっていきました。

母と父と

また安禄山は楊貴妃に取り入り、
楊貴妃の養子とされました。

ある時宮中に参内した安禄山は、
玄宗皇帝よりも先に、まず楊貴妃に拝礼しました。

さすがにムッとした玄宗皇帝。

「これ禄山、朕より貴妃が先なのか。
さすがに無礼では無いか」

すると安禄山は玄宗にふかぶかと頭を下げます。

「お許しください陛下。私の祖国では、
礼は母を先、父を後にします」

「むっ…これはかなわんな」

「ほほほ、禄山。面白き男」

玄宗皇帝も楊貴妃も明るく笑いました。

大きな赤ちゃん

751年正月。

楊貴妃は安禄山を新生児に見立て、
金銀の刺繍の入ったオムツをはかせます。

「まあまあ、かわいいでちゅね」
「だあだ、だあだ」

楊貴妃は安禄山を豪華なお輿に乗せ、
女官たちに担がせてそこらを歩かせます。

40歳過ぎの、しかも180キロを越える赤ちゃんです。
しかし安禄山は迫真の演技で、だあだ、だあだと
赤ちゃん役を演じ切りました。

玄宗皇帝も楊貴妃もこの様子を見て大笑いしました。

楊国忠

このような安禄山のロコツな媚びへつらいに、
周囲は眉をひそめます。

その筆頭が、宰相の楊国忠でした。

楊国忠(?-756)。蒲州(ほしゅう)永楽(山西省)の出身。
家柄は悪く、若い頃は酒とばくちに明け暮れていました。

しかし30歳の時、一念発起して蜀地方軍に
身を投じ、手柄を立てます。

いとこの楊貴妃が玄宗皇帝の寵愛を受け、
その縁故で中央政界に進出。

財政政策に能力を発揮し、
宰相李林甫が失脚した後は中央の全権を握りました。

「陛下、安禄山は危険です。
必ず近いうちに謀反を起こしましょう。
あまり安禄山をお近づけにならぬほうが
よろしいかと」

しかし、玄宗皇帝はのんきでした。

「何を言うか国忠。禄山はそちと同じく、
朕の大切な臣下ぞ。共に手を取り合って、
国政をさかんにしてくれ」

(わかってない…陛下はわかってない…!!)

一方の安禄山も、酔狂でオムツなんか履いてるわけでは
ありませんでした。

(媚びへつらい。そう言いたい奴は言うがよい。
お前らにこれだけの真似ができるか。
同じ媚びへつらうなら、これほど露骨に、
これほど面白く、徹底してやらなければならない!!)

追い詰められる安禄山

安禄山に対する周囲の反感は、日に日に強くなっていきました。

宰相楊国忠のほか、皇太子の李亨(りこう)も、
安禄山の危険を玄宗に訴えます。

「安禄山は危険です。ためしに問いただしてみてください」

「うーむ…皆がそこまで言うなら」

玄宗皇帝は安禄山を召しだそうと、
范陽に使者を送ります。

書状を受け取った安禄山は、自分のことを
たびたび楊国忠が讒言していたことを知っていました。

「もはや…やるしか無い」

挙兵

755年11月。

安禄山は、范陽に配下の軍勢15万を集めました。

180キロの巨体を左右から
召使に支えさせ、高台に上る安禄山。

肌を刺す真冬の早朝の冷気の中、

安禄山は腹心の史思明を横に従え、眼下に集う
15万の大軍を前に、大声で言い放ちました。

「これより君側の奸、
楊国忠を討つ!!」

ワアーー、ワアーー!!

安禄山は腹心の史思明に范陽の守備を任せ、
全軍を出発させます。

以後9年間にわたって戦われ、
中国全土を破壊しつくすことになった
「安史の乱」の幕開けでした。

≫つづき「安禄山の猛攻と唐の反撃」