蜀相 杜甫(しょくそう とほ)

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蜀相 杜甫
丞相祠堂何處尋
錦官城外柏森森
映階碧草自春色
隔葉黄鸝空好音
三顧頻煩天下計
兩朝開濟老臣心
出師未捷身先死
長使英雄涙満襟

蜀相 杜甫
丞相(じょうしょう)の祠堂(しどう) 何(いず)れの処(ところ)にか尋(たず)ねん
錦官城外(きんかんじょうがい) 柏(はく)森森(しんしん)
階(かい)に映(えい)ずる碧草(へきそう) 自(おのずか)ら春色(しゅんしょく)
葉(は)を隔(へだ)つる黄鸝(こうり) 空(むな)しく好音(こういん)
三顧(さんこ)頻煩(ひんぱん)なり 天下(てんか)の計(けい)
両朝開済(かいさい)す 老臣(ろうしん)の心(こころ)
出師(すいし)未(いま)だ捷(か)たざるに身先(みま)ず死(し)し
長(とこし)えに英雄(えいゆう)をして涙襟(なみだえり)に満(み)たしむ

現代語訳

蜀の丞相(諸葛亮孔明)を祭ったほこらは、どこだろうか。
成都郊外、柏がうっそうとしたあたりだ。
きざはしに映る草の緑は、春の気色を漂わせている。
梢の間に見え隠れするウグイスが、いたずらに好い声でさえずっている。

三顧の礼を尽くした蜀の劉備に対し、孔明は【天下三分の計】を示した。
そして劉備・劉禅二代にわたって、老いてなお蜀に仕えたのだ。

魏に対して北伐の軍を起こしたが、戦いに勝つ前に病に倒れてしまった。
こうした孔明の生き様は、後世の英雄たちに涙をしぼらせることになったのである。

語句

■蜀相 蜀の宰相諸葛亮孔明。杜甫は孔明を深く尊敬していた。 ■丞相 宰相。 ■祠堂 ほこら。成都郊外の諸葛武候祠(ぶこうし)。 ■錦官城 成都のこと。錦官は錦をつかさどる官名。成都が錦の産地であったことから。杜甫「春夜雨を喜ぶ」に「花は錦官城に重からん」の句がある。 ■森森 うっそうと繁っているさま。 ■黄鸝 こうり。うぐいす。 ■三顧 劉備が孔明の庵を三度訪ねて軍師として出馬してほしいと求めたこと。 ■天下の計 孔明が劉備に示した「天下三分の計」。 ■両朝 劉備・劉禅二代のこと。 ■老臣 孔明は建興12年(234年)五丈原で亡くなるまで蜀に仕えた。 ■開済 劉備とともに国を起こし、劉禅を補佐したこと。 ■水師 敵国魏を討伐する軍勢のこと。 ■捷 勝利すること。

解説

戦乱と飢餓を避けるため、家族を連れて各地を転々としていた杜甫が、
友人をたよってようやく落ち着いたのが、四川省成都でした。

時に760年春。杜甫49歳。

成都郊外には浣花渓(かんかけい)という川があり、
杜甫はこの浣花渓のほとりに庵を結んで暮らし始めました。

「ふう…ようやく落ち着ける。妻子にも苦労をかけた…
やっとのんびりできるかなあ」

ほっと息をなでおろす杜甫。

現在も杜甫の庵は「浣花草堂」として
残されています。

浣花渓は現在ではごく細い流れですが、
杜甫の時代には大河でした。
蜀の国の水運を支えていました。

杜甫の庵のそばには諸葛亮孔明を祀ったお堂
「武侯祠(ぶこうし)」がありました。
(現在の武侯祠は清の時代に再建されたものです)

諸葛亮孔明といえば、
例の扇子みたいなのを持って、全軍を指揮している
カッコいいイメージがありますが…

若き日の孔明は20代の若さで戦乱の世の中に見切りをつけ、
荊州の田舎で田畑をたがやして、
のんびり自給自足の暮らしをしていました。

「世間のやつらには、つきあいきれん。
勝手に戦でも何でもやってろ」という感じです。

そこへ尋ねてきたのが当時荊州北部にいた
劉備元徳でした。

「先生の才能は、こんな田舎で朽ち果てるような
ものではございません。どうか、お力をかして
ください」

三度尋ねて二度まで会えず、三度目にやっと
逢えたという「三顧の礼」の故事は有名ですね。

劉備は、当時無位無官の15歳ほども年下の
孔明に膝を折ったのでした。

「むむ…わかりました。そこまでおっしゃるなら」

こうして孔明は庵を出て、蜀の国の建国に
つとめることになるわけです。

杜甫の、孔明に対する熱い気持ちが
伝わってきますね。

詩人として今日有名な杜甫ですが、
別に詩だけを書きたかったわけではないんです。

中国では詩は天下国家の事に直結したことでした。
なので科挙でも詩を作る能力がまず求められました。
魏の曹操が武人であり政治家であり詩人でもあったのは
よく知られていますね。

杜甫も、「今はこんなだが、俺もいつかは
天下国家のことに関わるぞ。世の中を、よくするぞ」

という気持ちがあったのです。

孔明に共感するところが大きかったのです。

もしかしたら、孔明と自分の年齢を比較して、
焦ったりしたんじゃないでしょうか。

「孔明は俺の年ですでに蜀の国の丞相さまか…。
なのに俺ときたら…」とか。

杜甫は諸葛亮孔明に深く心酔していました。

古来中国では、詩は単に文芸上の遊びではありませんでした。すぐれた文章を書くとは、そのまま天下国家に直結することだったのです。すなわち優れた政治家は、すぐれた詩人でもなければなならないという考えがありました。

だから杜甫も、単に文学の面で名をなすだけではない。いつか俺も天下国家のために働くぞ。諸葛亮孔明が漢王朝の復興という使命に一生をささげたように。自分も唐王朝のために身命をとして働くぞという思いを持っていました。

安禄山の乱の戦火のさなか、杜甫は蜀(四川省)成都郊外に難を逃れます。そこに浣花渓という川のほとりに庵を結んで暮らし始めました。760年4月のことでした。

浣花渓は現在ではごく細い流れですが、杜甫の時代には大河でした。蜀の国の水運を支えていました。

杜甫の庵のそばには諸葛亮孔明を祀ったお堂「武侯祠(ぶこうし)」がありました。(現在の武侯祠は清の時代に再建されたものです)

杜甫はたびたび武侯祠に参拝したようです。

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朗読:左大臣光永

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