寒梅 新島襄(かんばい にいじまじょう)

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寒梅 新島襄
庭上一寒梅
笑侵風雪開
不争又不力
自占百花魁

寒梅(かんばい) 新島襄(にいじまじょう)
庭上(ていじょう)の一寒梅(いちかんばい)
笑(わら)って風雪(ふうせつ)を侵(おか)して開(ひら)く
争(あらそ)はず また力(つと)めず
自(おの)ずから百花(ひゃっか)の魁(さきがけ)を占(し)む

現代語訳

庭先に咲いた一輪の早咲きの梅。

風や雪を笑顔で耐え忍び、
平然と咲いている。

別に他者と争うでもなく、
力むのでもなく、

ごく自然に、あらゆる花に先駆けて、
まっさきに咲くのだ。

解説

新島襄(1843-1890)。同志社大学の前身たる同志社英学校の創設者。キリスト教の布教家。

天保14年(1843年)、上州安中藩板倉家江戸屋敷で藩士の子として生まれる。元服後、安中藩士として幕府の軍艦操練所で洋学を学ぶ。

アメリカ人宣教師の訳した漢語訳聖書の抜粋を読んだことや、松山藩の洋式「快風丸」に乗ったことをきっかけに、海外渡航を思い描くようになる。

元治元年(1864年)、上海経由でワイルド・ローヴァー号に乗りアメリカへ密航。

慶応元年(1865年)、ワイルド・ローヴァー号の船主・A.ハーディー夫妻の援助をうけ、フィリップス・アカデミー入学。

在学中の慶応2年(1866年)12月、アンドーヴァー神学校付属教会でプロテスタントの洗礼を受ける。

慶応3年(1867)フィリップス・アカデミー卒業。同年アマースト大学に入学。後に札幌農学校校長となるクラーク博士から化学の教えを受ける。

明治3年(1870)、宣教師となるためアンドーヴァー神学校に入学。

明治4年(1871)、森有礼(もりありのり)とボストンで会い、森のはからいにより留学許可状、旅券を得る。

アンドーヴァー神学校在学中の明治5年(1872年)、アメリカ滞在中の岩倉使節団と会う。

木戸孝允によって語学力を買われ、使節団に加わる。文部理事官・田中不二麻呂(たなかふじまろ)の通訳として欧米の教育施設を視察。

明治7年(1874)アンドーヴァー神学校卒業。会衆派の宣教師となり、帰国。

伝道のかたわら日本の近代化のリーダーとなる人物の育成をめざし、1875(明治8)年、山本覚馬と京都に同志社英学校を設立。

明治21年(1888)「同志社大学設立の旨意」を掲げ募金活動に奔走するも明治23年(1890年)、群馬県の前橋で病に倒れる。静養先の神奈川県大磯で徳富蘇峰らに遺言を託して死去。46歳。

「自責の杖」の逸話は有名です。同志社英学校が五周年を迎えた1880(明治13)年春のこと。

当時、学力によって上下のクラスに分かれていたのを、教師会の独断でひとつにまとめようという話になりました。

校長である新島襄が出張中のことでした。

この決定に上級クラスの生徒が反発、全員で授業をボイコットしました。

出張から戻った新島はいったんは校則にしたがってボイコットした生徒らを謹慎処分にしますが、すぐに謹慎を取り消します。

そして朝礼の席で「このような紛争が起こったのは教師のせいでも生徒諸君のせいでもない。すべて校長である私の徳の至らないためです」と言って、自分の手の甲を杖で何度も叩きました。

ついに杖は砕けてふき飛んだといいます。

その他、梅を詠んだ漢詩…
徳川斉昭「弘道館に梅花を賞す」鮑照「梅花落」ユ信「梅花」

次の漢詩「近江八景 大江敬香

朗読:左大臣光永

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