辞世 吉田松陰

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辞世 吉田松陰
吾今爲國死
死不背君親
悠悠天地事
鑑照在明神

辞世(じせい) 吉田松陰(よしだしょういん)
吾今(われいま) 国(くに)の為(ため)に死(し)す
死(し)して君親(くんしん)に背(そむ)かず
悠悠(ゆうゆう)たり 天地(てんち)の事(こと)
鑑照(かんしょう) 明神(みょうじん)に在(あ)り

現代語訳

私は今、国のために命を捧げる。

これはけして、君や親に対する忠孝の道に
背くことではない。

はるかなこの国の行く末を、憂うばかりだ。
霊験あらたかな神々よ、どうか御照覧ください。

解説

吉田松陰(1830-59)。幕末の長州藩の志士。教育者。幼名寅之助。号は二十一回猛士。

文政13年(1830年)、長州藩士・杉百合之助の次男として生まれる。6歳の時山鹿流兵学師範であった吉田家の養子となる。

天保十年(1838年)9歳。藩校明倫館ではじめて
山鹿流兵学の講義をする。以来、たびたび教えるようになる。

嘉永元年(1848年)、19歳で明倫館師範。翌年幕府の許可を得て九州を遊学。熊本で盟友宮部鼎蔵を知る。

嘉永4年(1851年)22歳。藩主に従って江戸に出て佐久間象山に師事。兵学を学ぶ。

嘉永5年(1852年)、23歳。宮部鼎蔵らと東北旅行を計画。出発日の約束を守るために藩府の許可を得ずに脱藩。このため江戸に帰着後、士籍と禄高を没収される。

嘉永6年(1853年)、浦賀に来航したペリーの黒船に乗り込み、西洋文化に打たれる。

金子重輔と海外渡航を企てるが失敗。幕府に自首する。このため小伝馬町の牢屋敷に入れられる。後に萩の野山獄へ送られる(この密航事件に連座して佐久間象山も投獄された)。

安政2年(1855年)、出獄を許され生家での禁錮を命じられる。

安政4年(1857年)、叔父が主催していた松下村塾を引き継ぎ、松下村塾主催者となる。

安政5年(1858年)大老井伊直弼と老中間部詮勝(まなべあきかつ)は、周囲の反対を押し切って日米修好通商条に調印。

また13歳の徳川家茂を将軍家の跡継ぎに決定。

こうした幕府の強引な政策に反発が起こります。しかし幕府は政策に反対する者を次々に処罰。

安政の大獄」とよばれる大弾圧がはじまる。

この動きを見た松陰は同士十七名と血盟し、老中間部詮勝の暗殺を企画。

そして目的達成のため、長州藩要人に後援を求める。(ここが松陰さんのわからないところですが)

しかし話は聞き入れられず(当たり前です)、藩は松陰を危険人物として投獄。

松下村塾は閉鎖され、安政6年(1859年)松陰は30歳という若さで処刑された。

「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂」こちらも吉田松陰の辞世として有名ですね。

「親思ふ こころにまさる親ごころ 今日の音づれ何と聞くらん」こちらは家族向けに書かれたものです。

朗読:左大臣光永

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