楓橋夜泊 張継(ふうきょうやはく ちょうけい)

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楓橋夜泊 張継
月落烏啼霜滿天
江楓漁火對愁眠
姑蘇城外寒山寺
夜半鐘聲到客船

楓橋夜泊(ふうきょうやはく) 張継(ちょうけい)
月落ち烏(からす)啼(な)きて霜(しも)天に満つ、
江楓(こうふう)の漁火(ぎょか)愁眠(しゅうみん)に対(たい)す。
姑蘇城外(こそじょうがい)の寒山寺(かんざんじ)、
夜半(やはん)の鐘声(しょうせい)客船(かくせん)に到(いた)る。

現代語訳

夜が更けて月は西に傾き、烏が鳴き、霜の気が天に満ちている。

漁火の光が運河沿いの楓の向こうに見え、旅愁を抱いて眠れないでいる私の目にチラチラして見える。

姑蘇城外にある寒山寺から夜半を告げる鐘の音が響き、この船にまで聴こえてくる。

語句

■楓橋 中国蘇州にある運河にかかった太鼓橋。もとは封橋と書いたが、この詩が有名になったため楓橋とあらためた。 ■月落 月が西に落ちる、傾く。夜が更けてきたこと。 ■烏啼 1.烏が鳴くのは明け方であるという説。2.夜中にも烏は鳴くのだという説。3.烏啼山という山の名前という説がある。 ■霜満天 霜の下りる気配が天に満ちること。霜は地面から上がってくるものだが、中国では天から降りてくるものと考えられていた。 ■江楓 川沿いの楓の木々。「江村」とする説も。 ■漁火 漁船のいさり火。 ■愁眠 旅愁を抱いてウトウトしながらたまに目が覚める浅い眠り。 ■姑蘇 蘇州の旧名。春秋時代の呉の都。 ■寒山寺 蘇州郊外西5キロの楓橋鎮にある、臨済宗の寺。南北朝時代の創建で当初は妙利普明塔院(みょうりふみょうとういん)といった。寒山・拾得が住んでいたという伝説がある。

解説

「楓橋夜泊」は、中国・日本とともにたいへんよく知られた詩です。詩吟で吟じられたり、教科書に載ったり、掛け軸になったりと、色々な形で親しまれています。

また、細かい語句の解釈をめぐって、昔から議論が絶えない作品でもあります。

【楓橋】は中国蘇州にある運河にかかった太鼓橋。そこに、旅の途中、船で夜泊まったんです。侘しい旅人の気持ちを歌った詩です。

一行ずつ見ていきます。

「月落ち烏啼き霜天に満つ」月が傾いて、烏が啼いて、霜が天に満ちている。この出だしは息継ぎなしで、バァーーッと読みたいところです。こう…いかにも霜が満ちている、その感動のたかぶりを思いながら。

【烏啼き】は昔から議論がありました。「夜に烏は啼かないだろう」と。

だから「烏啼」を固有名詞、山の名前と取り、「月 烏啼に落ち霜天に満つ」と読むのだと主張した方もありました。こうすると実にツマンナイ詩です。わかりにくい。その後、夜にも烏は啼くのだということで決着がつきました。

「江楓の漁火愁眠に対す」運河沿いの楓の向こうに見える漁火の光が旅の愁いを抱いて眠れない私の目に心に入り込んでくる。

【江楓】は川のほとりの楓。【漁火】は魚を捕るためのいさり火。この漁火のチラチラ燃えるイメージがこの詩の旅情を盛り上げている、ポイントです。

【愁眠】は旅愁を抱いて半ば眠れない状態。そこに漁火の火がチラチラする(對(対))わけです。

「姑蘇城外の寒山寺」【姑蘇城】は今の江蘇省蘇州。郊外にある【姑蘇山】にちなんだ地名です。

【姑蘇山】は紀元前6世紀から5世紀にかけて、呉王闔閭(こうりょ)またはその子夫差(ふさ)が眼前に広がる太湖を見下ろせる広大な宮殿を築いたという地です。

張継の時代にはすでに「蘇州」という言い方をしていましたが、あえてそこで【姑蘇】という古めかしい、時代がかった言い方をしたのです。格調を出したかったんでしょうか。

【寒山寺】は【姑蘇】城外西5キロの楓橋鎮にある、臨済宗のお寺。南北朝時代の創建で当初は【妙利普明塔院】といいました。

唐の貞観年間(627-649)に【寒山(かんざん】【拾得(じっとく)】という二人の坊さんが天台宗の国清寺から移り住み、それ以降【寒山寺】と呼ばれるようになりました。森鴎外の小説「寒山拾得」に、二人の僧の変人ぶりが描かれています。

宋代に「楓橋寺」とよばれていたこともあったようです。

戦火などで何度も崩れ、現在の建物は清代に再建されたものです。明代の文人・文徴明(ぶんちょうめい)の書碑「楓橋夜泊」の一部や、清代の愈?(ゆえつ)の「楓橋夜泊」詩碑、南宋の岳飛、明の唐寅(とういん)の墨蹟石刻があります。

現在も多く掛け軸に見られる「楓橋夜泊」の文字は、この愈?(ゆえつ)によるものです。私の祖父の家の座敷にもありました。

毎年大晦日になると寒山寺には日本人観光客が除夜の鐘をつきに訪れます。もっとも「楓橋夜泊」で鳴ってるのは別に除夜の鐘ではないんですが…。

結句「夜半鐘声至客船」…ゴーンと響いてくる鐘の音を、船の中で腕枕でもして聴いてるんでしょうか。シミジミした感じです。

ところがこの【夜半の鐘声】は議論のもとになりました。宋代の学者・欧陽修(1007-72)が「真夜中に鐘は鳴らない」と主張したのです。

「句は則ち佳きも、其れ如し三更ならば是れ鐘を打つの時にあらざるを奈んせん」。いますね。詩に対してロマンに対してこういうつまんないツッコミを入れる人。やな感じです。閑さや岩にしみ入る蝉の声がアブラゼミかミンミンゼミかというぐらい不毛な議論とは思います。

結局、白楽天の詩に鐘が夜鳴るところがあり(「半夜鐘声後」)、やっぱり鳴るのだ、ということで決着がつきました。

私は個人的に「楓橋夜泊」には深い思い入れがあります。亡くなった祖父の家の座敷に、「楓橋夜泊」の掛け軸がかかっていたんですね。おそらく祖父が蘇州に行った時の土産だと思います。

私が子供の頃、正月は家族そろって祖父母の家に遊びに行き、座敷で寝るのですが、夜中にふと目をさますと、闇の中にぼんやり浮かび上がる「楓橋夜泊」の掛け軸が、なんとも幻想的で、不思議で、子供心にわくわくしました。

作者 張継

作者張継は、中唐の詩人。字は懿孫(いそん)。襄州(湖北省襄陽)の人。政治手腕もなかなか達者な男だったと伝えられます。『唐詩選』にはこの一篇だ採られています。まさに一篇の詩のみで後世に名を遺した感じですね。

実は後年、張継はもう一度楓橋を訪れ、「再び楓橋に泊る」と題する詩を書いたといわれます。

白髪重来一夢中
青山不改旧時容
烏啼月落江村寺
欹枕猶聴半夜鐘

白髪 重ねて来たる一夢(いちぼう)の中
青山 改めず 旧時の容(すがた)
烏啼き 月は落つ 江村の寺
枕を欹(そばた)てて猶聴く 半夜の鐘

名作の続編にいいものはないという見本ですね。別人の作と信じたいところです。

作者 作者

中唐の詩人。字は懿孫(いそん)。襄州(湖北省襄陽)の人。生没年不詳。天宝十二載(753)の進士。節度使の幕僚を経て大暦年間(766-779)、中央に召され検校祠部郎中となった。博識で議論好き。政治手腕も達者で地方官として郡を治めた時はよく治まった。皇甫冉(こうほぜん)とは竹馬の友。著作に『張祠部詩集』一巻がある。

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朗読:左大臣光永

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