題常盤抱孤図 梁川星巌

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題常盤抱孤図 梁川星巌
雪灑笠檐風捲袂
呱呱覓乳若為情
他年鉄枴峰頭嶮
叱咤三軍是此声

常盤(ときわ) 孤(こ)を抱(いだ)くの図(ず)に題(だい)す 梁川星巌(やながわせいがん)
雪(ゆき)は笠檐(りゅうえん)に灑(そそ)いで風(かぜ)は袂(たもと)を捲(ま)く
呱呱(ここ) 乳(ちち)を覓(もと)む 若為(いかん)の情(じょう)ぞ
他年(たねん) 銕枴峰頭(てつかいほうとう)の嶮(けん)
三軍(さんぐん)を叱咤(しった)するは是(こ)れ此(こ)の声(こえ)

現代語訳

雪は笠の庇に雪ぎ、風は袂を巻き上げて吹く。

赤子がエーンエンと泣く。お乳を求める赤子の、
その思いは、どれほどのものであったろうか。

後年、一の谷の合戦で鉄枴が峰の上で三軍を叱咤したのは、まさに、この声であるのだ。

語句

■常盤 源義朝の愛妾。義経の母。 ■笠檐 笠のひさし。 ■呱呱 子供(牛和、乙若、今若)が泣く声。 ■他年 後年。 ■鉄枴峰 鉄枴が峰。六甲山の一部。一の谷の合戦の時、大将の義経が布陣した。中腹には「鐘懸松」という義経が甲をかけた松の木があった。

解説

漢詩の魅力の一つに、「歴史への興味をかきたてられる」ということがあります。

日本史の名場面を、かちっと短い言葉の中にはめこんでいるのは、嬉しくなります。

作者 梁川星巌

梁川星巌《やながわ せいがん》(1789-1858)。江戸時代後期の漢詩人。尊皇攘夷派の志士。名は孟緯、字を公図。号を星巌、詩禅。通称新十郎。寛政8年(1789年)、美濃国安八郡曾根村(現岐阜県大垣市)に生まれます。

文化4年(1807年)19歳で志を立て江戸に出て古賀精里《こが せいり》や山本北山《やまもと ほくざん》の私塾 奚疑塾《けいぎじゅく》に儒学と詩を学びます。しかし放蕩生活にひたり、いったん帰郷しました。

22歳でふたたび江戸に出て山本北山の奚疑塾に入り、大窪詩仏《おおくぼ しぶつ》・菊池五山《きくち ござん》など、江湖詩社《こうこししゃ》の詩人たちと交友します。

文化14年(1817年)29歳で帰郷。郷里に塾を開き梨花村草舎《りかそんそうしゃ》と名づけ、村瀬藤城《むらせ とうじょう》・柴山老山《しばやま ろうざん》らと白鴎社《はくおうしゃ》という結社を結成。

文政3年(1820年)32歳で幕末の女流漢詩人として活躍することになる紅蘭《こうらん》(1804-79)と結婚。同5年妻を伴って西遊の旅に出ます。この旅は博多・長崎まで至る五年間に及ぶ大規模な旅でした。

天保4年(1832年)、ふたたび江戸に出て、神田お玉が池に玉池吟社《ぎょくちぎんしゃ》を開き江戸詩壇で指導的な立場となっていきます。この頃、藤田東湖《ふじた とうこ》、佐久間象山《さくま ぞうざん》とも交わりを持ち世情への感心を高めていきます。

弘化2年(1845年)玉池吟社をたたんで帰郷。翌3年京都へ上り悠々自適の傍ら梅田雲浜《うめだ うんぴん》、頼三樹三郎《らい みきさぶろう》、吉田松陰《よしだ しょういん》、春日潜庵《かすが せんあん》、橋本左内《はしもと さない》らと時勢を論じ、尊王倒幕運動にかかわるようになっていきました。

幕府からは尊皇倒幕派とにらまれますが、安政の大獄がはじまる直前の安政5年(1858年)9月2日、流行のコレラにより70歳で没しました。墓は京都南禅寺にあります。

星巌は、はじめ宋詞を、後に唐詩や清の詩を好み「日本の李白」といわれました。星巌の詩は頼山陽の文章とならび賞されました。詩集に『西征詩』『星巌集』『星巌先生遺稿』。

朗読:左大臣光永

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