詩情怨(しじょうえん)<古詩十韻>(こしじゅういん)菅著(かんちょ)作(さく)に呈(しめ)し、兼(か)ねて紀秀才(きしゅうさい)に視(しめ)す 菅原道真(すがわらのみちざね)

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詩情怨<古詩十韻>呈菅著作、兼視紀秀才 菅原道真

去歳世驚作詩巧
今年人謗作詩拙
鴻臚館裏失驪珠
卿相門前歌白雪
非顯名賤匿名貴
非先作優後作劣
一人開口万人喧
賢者出言愚者悦
十里百里又千里
駟馬如龍不及舌
六年七年若八年
一生如水不須決
一生如水穢名満
此名何水得清潔
天鑑従来有孔明
人間不可無則哲
悪我偏謂之儒翰
去歳世驚自然絶
呵我終為實落書
今年人謗非眞説

詩情怨(しじょうえん)<古詩十韻>(こしじゅういん)菅著(かんちょ)作(さく)に呈(しめ)し、兼(か)ねて紀秀才(きしゅうさい)に視(しめ)す 菅原道真(すがわらのみちざね)

去(い)んじ歳(とし) 世(よ)は驚(おどろ)く 作詩(さくし)の巧(たく)みなるを
今年(こんねん) 人(ひと)は謗(そし)る 作詩(さくし)の拙(つた)なきを
鴻臚館裏(こうろかんり) 驪珠(りしゅ)を失(うしな)ふ
卿相門前(けいしょうもんぜん) 白雪(はくせつ)を歌(うた)ふ
名(な)を顯(あら)はしたるは賤(いや)しきにも 名(な)を匿(かく)したるは貴(とふと)きにも非(あら)ず
先(さき)の作(さく)は優(すぐ)れたるにも 後(のち)の作(さく)は劣(おと)れるにも非(あら)ず
一人(いちにん) 口(くち)を開(ひら)きて 万人(ばんじん) 喧(かまびす)し
賢者(けんじゃ) 言(こと)を出(いだ)して 愚者(ぐしゃ) 悦(よろこ)ぶ
十里(じゅうり) 百里(ひゃくり) また千里(せんり)
駟馬(しば)は龍(りょう)の如(ごと)くなれども 舌(ぜつ)に及(およ)ばず
六年(ろくねん) 七年(しちねん) 若(も)しは八年(はちねん)
一生(いっしょう)は水(みず)の如(ごと)し 決(やぶ)るべからず
一生(いっしょう)は水(みず)の如(ごと)し 穢(けが)らはしき名(な)に満(み)てり
此(こ)の名(な)は何(いか)なる水(みず)をみちて清潔(せいけつ)を得(え)む
天鑑(てんかん) 従来(もとより)孔(はなは)だ明(あき)らかなること有(あ)り
人間(にんげん) 哲(あきらか)なることなかるべからず
我(われ)を悪(にく)むに 偏(ひとへ)に儒翰(じゅかん)と謂(い)ふ
去(い)んじ歳(とし) 世(よ)の驚(おどろ)きしこと 自然(しぜん)に絶(た)えたり
我(われ)を呵(か)して終(つひ)に實(まこと)の落書(らくしょ)と為(な)す
今年(こんねん) 人(ひと)の謗(そし)るは眞説(しんせち)にあらず

現代語訳

詩情怨<古詩十韻>大内記菅野惟肖(すがの これゆき)に示し、また、紀長谷雄に示す。

去年、匿名で人を謗る詩が発表された時、あまりに作詩がたくみなので、世間の人は驚き、私が書いたのであろうと疑いをかけた。

今年、私が渤海使に対する詩を作ったところ、作詩がまずいといって世間の人は非難した。

鴻臚館の裏で、私は名声を得る機会を失った。

大納言某の門前で、「白雪」の曲のように、高度な詩が読まれたことで、私が疑われることになった。

実名で詠んだ詩がまずいというわけでも、匿名の詩がすばらしいわけでもない。

先の詩がすぐれているわけでも、後の作が劣っているわけでもない。

(それなのに)一人が口を開いて「あれは道真のしわざだ」と言い出すと、あらゆる人がやかましく言い始めた。

身分の高い人が言い出すと、下々の者もそれに従った。

十里、百里、また千里と噂は飛んだ。

龍のように速い四頭立ての馬車で追いかけても、舌の速さには及ばない。

噂が消えるまで六年 七年 若(も)しは八年かかるだろうか。

一生は水のようであり、堤防を切って汚水を流しだすことはできない。

一生は水のようであり、汚名はいつまでも残って、堤防に満ちている。

(人を誹謗する詩を作ったという汚名はいつまでも消えない)

この汚名は、どんな水をもってすれば清潔になるのだろうか。

天の見通しは本来、たいへん明らかではっきりしている。

人間も、人を見るのにあきらかであるべきだ。

私を憎む人は、ひたすら私が学者であり、詩人であるといって非難する。

去年、世を騒がせた匿名事件も、自然におさまった。

私をなじって、ついに匿名の落書の真犯人としてしまった。

であれば、今年私の詩がまずいといって世間の人が非難しているのも、あてにならないことではないか。

語句

■詩情怨 詩題。「玉階怨」「雀台怨」などにならってつけたもの。作詩をした時のいきさつを述べた恨み言の詩、といった意味か。 ■菅著 大内記菅野惟肖(すがの これゆき)。平安時代前期の学者・役人。文章生の時、渤海使節の接待役をつとめる。元慶8年(884)大内記。道真とともに太政大臣の職務について問われて答えて奏上した。仁和2年(886)道真が讃岐守となると同時に勘解由次官となる。 ■紀秀才 道真の友人、紀長谷雄。文章得業生。元慶7年(883)掌渤海客使。 ■鴻臚館 京都の鴻臚館。渤海使節を接待するための館。京都市下京区西新屋敷下之町に東鴻臚館址の碑が立つ。 ■驪珠 龍のあぎとの下にあるという玉。滅多に得られないもののたとえ。 ■卿相 三位以上の八卿。大納言藤原冬緒を想定。 ■白雪 曲名。難易度の高い曲とされる。大納言藤原冬緒を非難する詩が白雪の曲のように見事な詩であったために、道真の作と疑われたことを言う。 ■駟馬 四頭立ての馬車。 ■天鑑 天道の見通し。 ■儒翰 「儒」は学者。「翰」は詩人。

解説

菅原道真は元慶元年(877)10月、文章博士に任じられました。16歳でした。文章博士とは式部省に属する官僚養成機関「大学寮」において、文章道の指導を行う先生のことです。文章道とは主に漢詩文と中国の歴史を教えるのです。それを教える先生が、文章博士です。祖父清公も、父是善もついた、誉高い役職でした。

しかし、父是善は心配しました。文章博士はたしかにほまれ高い役職だ。だが人から妬みを買うことも多いと…。

父の心配した通り、道真は周囲から大いに妬みを買いました。元慶6年(882)大納言藤原冬緒を批判する、匿名の詩が発表された時、そのあまりに見事な出来から、これは道真のしわざに違いないと疑われました。

翌元慶7年(883)、道真は渤海の使者に贈る詩を九首を作ります。その時は、出来の悪いことから世間から非難されました。

何をやっても文句を言われる。やってられない!若き道真のウックツした気持ちが、よく出ている詩です。この時、道真22歳です。

悪い噂によって将来の出世をくじかれてしまった、傷ついた気持ち。22歳という若さならではの、心配しすぎというか、一つのつまづきを大きく見すぎるところが見えます。

後年の道真の作品に比べれば詩の精神性はつたないですが、若き日の道真のいつわりない思いが出ていると思います。

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