安禄山の最期

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ウイグルへの援助要請

756年6月、

玄宗が四川に逃亡してから10日ほど後、
長安に安禄山軍がなだれこみます。

安禄山軍、長安占領
【安禄山軍、長安占領】

安禄山軍の略奪はすさまじいものでした。
子供も年寄りも殺しまくりました。

一方、霊武で即位した粛宗は、
河北方面で安禄山軍と戦っている
将軍郭子儀(かくしぎ)に使いを立てます。

「すぐに河北を引き払い、
長安奪回に専念せよ」

粛宗、郭子儀に河北を引き払い長安奪回を指示
【粛宗、郭子儀に河北を引き払い長安奪回を指示】

(ご無理を言われる…)

思いながらも郭子儀は命を受けて河北から漢中へ軍勢を移動します。
しかし郭子儀の軍勢だけで長安を奪還するのは兵力不足でした。

そこで粛宗は決断を下します。

「ウイグルに援軍を要請する!!」

ドカカ、ドカカ、ドカカ…

敦煌郡主李承寀(りじょうしん)・
トルコ系の武将僕固懐恩(ぼくこかいおん)・
ソグド系の武将石定番(せきていばん)らが使者となって馬に乗り、
粛宗の親書をたずさえて出発します。

使者は黄河を北に越え、砂漠と草原の中、
馬を走らせること数十日。

翌10月、オルホン河畔オルドバリクの宮殿で
ウイグル王葛勒可汗(かつろくかがん)と会見します。

「わかった。力になろう」
「おお!ありがたや。大ハーンよ」

ウイグル王葛勒可汗はすぐに安禄山軍と戦うための
兵力を徴収します。その上、皇后の妹をわが自分の娘とした上で
使者である敦煌郡主李承寀(りじょうしん)に娶らせました。

こうして、
ウイグルと唐の間に、同盟が結ばれました。

756年の末には数千のウイグル兵が
唐軍に合流。

「勇猛果敢をもって知られるウイグルの勇者たちが
われらに味方してくれる。なんと力強いことか。安禄山なにするものぞ!」

唐軍の士気は上がります。

安禄山の最期

一方、

洛陽に続いて長安までやすやすと手に入れた安禄山でしたが、
その肉体は日に日にむしばまれていました。

安禄山は180キロを越える巨体でした。それでか、どうだか、
糖尿病をわずらっていました。

757年正月。安禄山は完全に目の光を失っていました。
また全身に悪性のできものが出ていました。

「金はいくらでも出す。
医者だ。医者を連れてこい」

「……」

「目が、見えぬのだああぁ!!」

「陛下、落ち着いてください…」

「やかましい!!お前たちに、
朕の気持ちがわかるかッ!!
これでは、皇帝となっても、
意味が無いではないかッ」

ドガシャアアーーン

部下を殴り、蹴り、
鞭打つ安禄山。

その上、安禄山には長男の安慶緒(あんけいしょ)がいましたが、
安禄山は妾の子である三男の安慶恩(あんけいおん)を溺愛するようになっていました。

安慶緒は焦ります。

(このままでは弟に帝位を奪われる…)

そこへ、安禄山によって鞭打たれ恨みを抱く
側近たちが近づき、安慶緒を口々にたきつけます。

「やるなら今です。
私たちはあなたさまのお味方です」

「わかった…」

757年正月、安慶緒は側近数名と、父安禄山を殺害します。

「逆賊安禄山、死すべし!!」

「ぐ、ぐぬううううぅ」

ぼってり垂れた安禄山の腹に、ずぶずぶとめりこむ刃。
安禄山は手足をバタバタさせて、やがてガックリと息絶えます。

享年55。
洛陽で「大燕皇帝」を名乗ってから、
わずか1年目のことでした。

長安奪還

唐・ウイグル連合軍十五万は
長安奪回を目指しますが、問題を抱えていました。

全軍が各国からのかき集めで、
指揮系統がメチャクチャでした。

ようやく11月に長安を奪回し、
その勢いで洛陽へ攻め寄せます。

唐・ウイグル連合軍 長安から洛陽へ
【唐・ウイグル連合軍 長安から洛陽へ】

しかしウイグル軍は
洛陽奪回の暁には許すとされていた略奪に夢中になり、
軍隊が先に進まなくなります。

「ふん、もう洛陽にとれるものなど残っておらんわ」

安慶緒は
唐・ウイグル連合軍がグズグズしているうちに
共を連れて洛陽を脱出します。

哥舒翰の処刑

「おおーい、わしも連れて行ってくれえぇぇ」
「ぬ?」

逃げていく安慶緒に取りすがる一人の老人がありました。
哥舒翰(かじょかん)。先年の潼関の戦いで破れ、
捕虜として軟禁されていた老将軍です。

「いまさら唐に戻っても反逆者として処刑されるだけだ。
どこまでも着いていく。頼む」

「ちっ…まだいたのか」

ズバアアア

安慶緒は刀を振り上げ、
哥舒翰を一刀の下に切り伏せました。

史思明

その後、安慶緒は洛陽を東へ…
黄河を越え、黄河の北、安陽に入り、体勢を整えます。

安慶緒、安陽へ。史思明合流
【安慶緒、安陽へ。史思明合流】

そこへ北方の范陽から、安慶緒を救援するために
史思明の軍勢が合流します。

「おお史思明、よく駆けつけてくれた」
「私にお任せください」

こうして史思明の力を得た安慶緒は唐軍を撃退。
ふたたび洛陽を陥落させます。

双方の軍隊によって何度も略奪された洛陽には、
もはや取るものも残っていませんでした。

しかし安慶緒はすぐに史思明によって殺害され、
史思明が大燕皇帝と名乗り即位します。

その史思明も、すぐに息子の史朝儀によって
殺されます。

乱の終結

一年のこう着状態の後、762年4月、
唐では粛宗が崩御し、かわって代宗が即位。
すると反撃の気運が上がります。

「今こそ、洛陽を奪還すべし!!」

トルコ系の武将僕固懐恩(ぼくこかいおん)を先頭に、
唐軍は洛陽を攻め、激しい戦いのすえ、10月洛陽を奪回。

さらに追撃の手を休めず、河北へ逃げる史朝儀をひたすら
追撃し、追撃し、范陽の東に史朝儀を追い詰め、
自殺に追い込みました。

唐軍、史朝儀を追撃
【唐軍、史朝儀を追撃】

こうして9年間にわたる安史の乱は終結しました。
豊かだった唐の国土は破壊しつくされ、あれほど栄えていた
長安・洛陽も焼け野が原になってしまいました。

経済もメチャクチャになります。

李白・杜甫といった詩人たちの上にも
安史の乱は暗い影を落としています。

つづき「安史の乱と李白

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